「イチゴ畑」のお知らせ

前にも少し書きましたが、7月10日発売の光文社のPR誌『本が好き!』通巻38号にエッセイを寄稿しています。

統一テーマのもと、数人の執筆者がそれぞれエッセイを書く、という「テーマエッセイ」の欄があるのですが、今回のテーマは「ふるさとは遠きにありて」というもので、4人の執筆陣のうちの1人が私です。

ちなみに、私のタイトルは「イチゴ畑」cake

実は、私のもとにまだ雑誌が送られてきていないので、画像をブログに貼ることができないのですが、雑誌はもう出ているようですので、お知らせいたします。

もしご興味があれば、お読みいただければ幸いですchick

m(_ _)m

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大著! 『フェルディナン・ド・ソシュール』(互盛央著)

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昨日、『思想』編集長の互盛央(たがい もりお)さんより、『フェルディナン・ド・ソシュール <言語学>の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社)を、有り難くもお送りいただきました。

こう書きますと、まるで互さんが仕事で編集されたご本のようですが、なんと、この本、互さんご自身が書かれたもの Σ(゚□゚(゚□゚*)

互さんは、岩波書店に勤務するかたわら、修士課程に入り、10年かけて博士論文を書き、博士号を取得され、このたびの御著書の出版となったとのことです。

心より、お祝いを申し上げます。

いただいたご本は、とにかく大著。本文だけで553ページ(しかも2段組!)。厚さ約4cm。

ちなみに、私の処女作『クソマルの神話学』は本文240ページ。もちろん段組なし(゚▽゚*)。厚さ2cm。互さんの約半分(上げ底換算にて)。

さて、この本ですが、過去に自分が執筆した論文を、たんに寄せ集めて捏ね上げたものでは決してありません。また大量の先行研究を、消化不良のまま単に並列しているだけの著作でもありません。

互さんは、様々な領域の研究成果を自家薬籠中の物にして、独自の文体で執筆されています。しかも、これこそまさに学際的な研究だと言える内容です。

本の構成を簡単に述べますと、ソシュールの<言語学>が生み出される個人的・時代的背景を念頭に置いて序章が書かれ、次に「一般言語学」講義の聴講ノートとソシュールが残した草稿にもとづく詳細なテクスト読解が、同時代の文化史的・思想史的な動向を視野に入れつつ行われています。

互さんが序章で描いている、ソシュールが自身の<言語学>を構想しようとする際に対峙していた歴史的・思想的な問題は、神話学や宗教学なども共有していたものだったので、私にとってはその点がたいへん興味深く、また教えられる事が多々ありました。

実は、私、まだ「まえがき」と「序章」しか読んでいないのですcoldsweats01
なんてったって、序章だけで89ページ(しかも、しつこいようですが、2段組!)。

加えて、読み飛ばす事のできない、粘り強い思索が展開されているのです。

これは決してお世辞ではなく、例えば、フィヒテやフンボルトやランケなどをもとに考察される、「近代国民国家の逆説」や「歴史」そして「民族精神」の意味、またニーチェの「因果性批判」に関する論述などを読むと、そこには単なる学術論文を越えた、批評性の高い哲学的考察、しかも構造論的視座を有する思索が見られるはずです。

これから本論を読んでいこうと思っているのですが、読み終わるまでにかなり時間がかかりそうなので、とりあえず、天才・ソシュールの〈言語学〉の歴史的な孤軍奮闘を描いた、稀に見る力作を、いち早くみなさまにお知らせしようと思った次第です。

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『アルレッキーノ 二人の主人を一度にもつと』に行ってみた

1_3 昨日、世田谷パブリックシアターで上演されているミラノ・ピッコロ座の『アルレッキーノ—二人の主人を一度にもつと』を見てきました。

この戯曲は、山口昌男先生の名著『道化の民俗学』の冒頭に出てくるもの。この本を大学で講義したこともあって、長らくこの戯曲を見たいと思っていましたが、やっと念願が叶いました。

会場は立ち見が出るほどの大盛況。舞台は、滑稽なのに、最後はなかなか感動的、音楽も効果的で、非常に良かったです。

ところで、主役であるアルレッキーノ役の俳優フェルッチョ・ソレーリさん。舞台を跳んだり、はねたり、右へ左へと、たいへん躍動的だったのですが、アンコールで仮面を外された時に見えた素顔では、頭髪がまっ白でした。

それで、自宅に帰った後に、いったいお年はいくつなのかと気になって調べてみましたら、なんとソレーリさんは御年80歳! そんなお年だとはまったく、ほんとに微塵も気づきませんでした。 すごすぎる w(゚o゚)w

これは見る機会に恵まれて、本当に良かったと思える舞台でした。



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打ち合わせの日々

大学の講義と死生学のCOEの仕事で繁多なのはいつもの事ですが、それにもまして天手古舞いdashの日々を、このところ送っていました。

特に先週は、「これだけ、毎日、打ち合わせばかりしているのも珍しい」というくらい、連日、何かの打ち合わせ、ないしは打ち合わせ準備のようなものをしていました。(その合間に、原稿書きとチェック・訂正。)

ああ、時間が欲しい。。。

さて、打ち合わせの中には、拙著『猫はなぜ絞首台に登ったか』(光文社新書)を編集してくださった、光文社・新書編集部の小松現さんとの再会がありました。

最近、小松さんから、光文社のPR誌『本が好き!』に掲載するエッセイのお話をいただいたりして、けっこうメールでのやりとりはしていたのですが、実際にお会いするのは、本当に何年かぶりcrying

知らない間に、小松さんは副編集長に昇進shineしていて、

しかも、昨今、書店に行って、平積みの棚を眺めれば、必ずと言っていいほど、その方と目が合う、3代目・自転車名人、

あの、勝間和代さんの、

『お金は銀行に預けるな』なども手がけられていました。

(小松さんによると、勝間さんのいろいろな著書の中で、この本が一番売れているとのことです。)

ちなみに、私のエッセイですが、2009年7月10日発売の8月号(通巻38号)に掲載されることになっております。

それから、先週の特記事項としては、なんと、某テレビ局の某番組からの接触がありました。

まだお話だけなので、実際に出演と相成るかどうかはまだ不明ですが、たいへんありがたく思ったのと同時に、心の底から驚きました。

なんといっても、番組のホストがあのV6のみなさんなので。。。

モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!

ラジオには出たことがあるのですが、テレビは……。はてさて、どうなるでしょうwink

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富士学会・第8回シンポジウム(2009年6月20日)のお知らせ

富士学会会長・西川治先生より、第8回富士学会fujiのお知らせが届きました。

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富士学会といえば、昨年の7月に珍しい能の演目「富士山」の公演を主催した所で、富士山を研究するための学会です。

今年は公演はなく、どうやら富士山に関する文化論的なシンポジウムがメインのようです。

シンポジウムの講演者は二人で、中世文学研究者の久保田淳氏と比較文学者の平川祐弘氏です。

ゴージャスなメンバーなのに、大会参加費は無料happy02、しかも学会員でなくても聴講できるとのこと。

期日は以下の通りですので、興味がおありの方は、是非どうぞ。

2009年6月20日(土曜日)開場13:20 終了18:00

なお、詳細については、富士学会のホームページを直接ご覧下さい。

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ブリテンズ・ゴット・タレント2009 その後の話題 

前回、イギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント(Britain's Got Talent。略してBGT)」と数組の出演者のことをちょこっと書きましたが、それ以来、番組に関する検索ワードで当ブログへやってくる方がだいぶ増えました。

特に、「ブリテンズ・ゴット・タレント」のファイナリストたちがその後どうなったかを知りたいという方が多いようなので、今回は、私がイギリスの新聞から知り得た三組(厳密に言うと、二組と一人、Diversity、Susan boyle、Stavros Flatley)のその後を書いておきたいと思います。

ということで、いつもの当ブログの内容とは趣が異なっていて、知っている人にだけわかる話題となっております。

ちなみに、出演者の演技は、番組のホームページ(音楽が出ます、ご注意あれ!)上でも、YouTubeでも見ることができます。YouTubeなら、「Britain's Got Talent 2009 ○○」と○○のところに出演者の名前を入力すれば、たくさんの動画が出てきます。予選、セミ・ファイナル、ファイナルと3段階の動画があります。

ご存じない方で興味をお持ちの方は、ご覧になってからお読みいただければ幸いです。

まずは今回の優勝者であり、映画出演も決まったダンス・グループのダイヴァーシティ(Diversity)。彼らの真ん中で、軽々と宙返りを繰り返していた、アフロヘアを変形したような髪型の13歳の少年ペリー(Perri)君は、BGTのために休んでいた学校(エセックスにあるGable Hall Schoolという学校だそうです)に戻り、日常生活を送っているようです。

このステージに出演してからというもの、ペリー君の環境は大激変したとのこと。というのも、優勝した彼のもとには女の子のファンが殺到したからだそうです。かわいい女の子からきつく抱きしめられることもあったそう。

この後、ペリー君は、ダイヴァーシティの他のメンバー、それからBGTのファイナリストたちと一緒に、6月12日から7月5日までの間に、現在のところ合計20回開催されるテレビ局主催の地方公演に出るとのこと。1公演のチケット代は約5,000円!

話かわって、この公演への出演が目下危ぶまれているのが、今回、BGTを世界的な番組に押し上げた立役者である、48歳の歌姫スーザン・ボイル(Susan boyle)さん。略してスーボ(SuBo)。未婚で、本人が「これまでキスもしていない」と最初のオーディションの時にふざけて述べたため、新聞紙上では「スコットランドの乙女(Scottish Virgin)」などとも表現されています。

日本でも報道されましたが、彼女、ダイヴァーシティに負けたのが原因か、今、入院中です。「スーボの崩壊(meltdown)」などと書き立てられていますが、彼女が立ち直って、歌を続け、世界中から来ている仕事の依頼をこなしていけば、多く見積もって、1年間に10億円を超えるくらい稼ぐ(!)のではないかという試算も出ているようです。

この番組、チャールズ皇太子もファンで、とくに彼が興味津々なのはこのスーザン・ボイルさんだとのこと。審査員の一人である女優のアマンダ・ホールデン(Amanda Holden)さんに自分から近寄ってきて、「あなたが、ブザーで、ショーをしている方ですね?」とユーモラスに話しかけたほどだそうです。

(アマンダさんを初めとする審査員3人〈時には4人〉は、出演者に対して、ダメだと思った瞬間に赤いブザーを押すことになっています。このブザーが鳴ると、舞台上に用意された大きな×が赤く点灯し、3つ×がつくと、出演者はその場で演技をやめなくてはならないというルールがあります。)

これは、チャールズ皇太子の生活を知る上で、かなり貴重な情報だと思います。

実は、私、大学生の時に、ケンブリッジ大学から日本の奨学金で留学にやってきた女の子2人と知り合いになったのですが、彼女たちは2人ともテレビを見ていないと話していました。そして、彼女たちの周囲の友人も家族もテレビを見ていないらしいのです。

その時にわかったのは、イギリスのエリート層というのは、そもそもテレビを全く見ない人たち、テレビを見る習慣の全くない人だちだということでした。では、彼らは何をしているのかというと、本を読んでいるのです。しかも、詳細なノートを取りながらです。

イギリスは階級社会と言われていますが、階級によって、テレビを見る見ないというような生活習慣も異なるのだということを、私は初めて知ったのです。

だから、私は、あのチャールズ皇太子がそもそもテレビを見ているのだということに驚いたのです。そして、それは私だけではなく、チャールズ皇太子が話しかけた当のアマンダ・ホールデンさんもそうだったよう。

チャールズ皇太子がアマンダに話しかけた時、彼女はこう答えているのです。「あなた(=チャールズ皇太子)がテレビを見ているなんて、知りませんでした」と。それだけBGTの人気が社会現象と呼べるくらいにまで高まったということなのでしょうけれども、一方でイギリスの階級社会を支える生活習慣が変化してきたことも窺わせて、なかなか面白いやりとりだと思います。

さて、最後の話題は、12歳にして天才的歌唱力を持つシャヒーン・ジャファゴリ(Shaheen Jafargholi)に、何故かセミ・ファイナルで期せずして勝ってしまった、親子のダンサー、スタブロス・フラットリー (Stavros Flatley)についてです。

父親はディミトリオス氏40歳、子どもはラギ君12歳。舞台の上ではシャヒーン君とラギ君はライバル同士となってしまったわけですが、舞台を降りると2人は同い年ということもあって、大の仲良しのようです。

で、父親のディミトリオスが語ったところによれば、彼ら親子も日常生活に戻ったようです。

ディミトリオスは、ロンドンのオークウッドで、ギリシア料理のレストランを経営しています。その名前は「シルターキ タヴェルナ(Sirtaki Taverna)

レストランの名前のシルターキとはギリシアの民族舞踊のことで、タヴェルナは軽食堂のこと。探してみたら、「シルターキ タヴェルナ」のホームページがありました(ここも音が出ます)。彼らのダンスと同じで、とても楽しそうなお店です。イギリスに行ったら、是非寄ってみたいと思ってしまったほど。

さて、父親のディミトリオスは、ギリシアの民族舞踊と食堂の2つをかけあわせて店の名前(「シルターキ タヴェルナ」)にしていますが、この2つのものを組み合わせて名前をつけるやり方は、今回BGTに出るためにつけた自分のダンスチームの名前スタブロス・フラットリー(Stavros Flatley)の場合も同じだということに、私は気づきました。

ディミトリオスは、キプロス島の出身で、彼のお腹にはキプロス(CYPRUS)の文字と国旗の入れ墨があります。そして、チーム名であるスタブロス(Stavros)はこのキプロス島にある地名だということがわかりました。

さらに、スタブロス・フラットリー(Stavros Flatley)のフラットリーですが、これは、マイケル・フラットリー(Micheal Flatley)(ここも音が出ます)から取ったようです。ちなみに、マイケル・フラットリーは、「ロード・オブ・ザ・ダンス」というDVDを出している、たいへん有名なリバーダンスの振り付け師兼ダンサーです。

というわけで、この親子は、予選やファイナルのダンスで、このマイケル・フラットリーのダンスをもじり、それをコミカルなバージョンに改変して演じていたというわけです。

ディミトリオスはキプロス島のスタブロスの出身なのでしょうか。ここはちょっとわかりませんが、おそらくスタブロス・フラットリーとは、「キプロス島スタブロスの(マイケル)フラットリー」という意味だと思われます。

それから、スタブロス・フラットリー親子が、予選やファイナルでかぶっている金髪のカツラに黒いバンダナ、そしてファイナルの赤いジャケットに黒い革のパンツですが、これは完全にマイケル・フラットリーのパクリ。

YouTubeの映像を見てわかったのですが、本家のマイケル・フラットリーはすごい。でも、もじっている彼らもかなりすごい。マイケル・フラットリーのダンスを知っていると、彼らがいかに面白いかがよくわかります。

彼らはセミ・ファイナルでは、マイケル・フラットリーのダンスを離れて、故郷のギリシア方面のダンスを踊っていました。このダンス、実は映画『その男ゾルバ』の中のエンディングのダンスシーンのパロディーなのです。音楽は、現代ギリシアを代表する音楽家・ミキス・テオドラキス(音楽が流れます)のものです。(この映画の中のダンスは、YouTubeで「Zorba The Greek」と入力すれば見られます。)

さて、映画『その男ゾルバ(Zorba The Greek)』の原作者は、クレタ島出身のニコス・カザンザキスです。そして元になった本の原題は「アレクシス・ゾルバスの生活と行状」です。しかし邦訳では映画のタイトルと同じ『その男ゾルバ』という題で出版されています。

ニコス・カザンザキスは、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)』の原作者としても有名です。カザンザキスの作風と出身地を重ね合わせると、文化論的にもかなり面白いのではないかと思いました。

スタブロス・フラットリーの父親ディミトリオスは、背中に「DANCE? DID YOU SAY DANCE? 」「CMON MY BOY!」という入れ墨を入れています。これは『その男ゾルバ』のダンスシーンで使われている言葉です。ネクタイをした男の入れ墨も、この映画に登場している俳優・アンソニー・クインの姿。ディミトリオスは相当この映画が好きなようです。

アンソニー・クインと言えば、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』の主人公・大道芸人ザンパノの名演が光ります。ディミトリオスの風貌が、どことなく『道』の主人公に似ていると思うのは私だけでしょうか。

ところで、彼が生まれた頃、キプロスは政治的に大きな曲がり角を迎えていました。確たる事は分かりませんが、ディミトリオスは、そのような時代の中、キプロス島のスタブロスからイギリスに、家族と一緒に渡ってきたのでしょうか。

自分の故国の料理をイギリス人に食べさせる店を開き、お腹に自分の故国の入れ墨を彫り、そして、息子とともにBGTに出て、セミ・ファイナルで故国のダンスを、予選とファイナルでキリスト教以前のケルト音楽をモチーフとするマイケル・フラットリーのダンスを踊っている。

彼らのダンスの中に、ケルト文化とキプロス文化の融和を読み取ってみると、彼の個人史から政治史や文化史が垣間見えて来るようです。

(なお、上記の記事は、6月4日付けのThe Sun、6月1日付けのTelegraph、6月4日付けのEnfield Independent、森安達也「カザンザキスの人と文学」『その男ゾルバ』(恒文社1987[第4版])所収、ウィキペディアなどを参考にしています。)

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『大航海』よ、お前もか!

二週間ほど前、『國文學』の休刊について書いたばかりなのに、今度は、『大航海』(新書館)が6月5日号で休刊になるというニュースです。

『大航海』といえば、『現代思想』(青土社)の編集長として名を馳せ、その後評論家としても活躍している三浦雅士氏が、青土社を辞めた後に編集に携わっている季刊誌です。そして、この手の雑誌の中では、20世紀後半の活発だった現代思想の余韻を今なお伝え続けていたはず。毎号の表紙も凝ったデザインで、私としては気に入っていたのですが、やっぱりダメだったのですねweep

思うに、リアリズム小説に対してジョージ・スタイナーが述べた言葉が、今度は思想や批評についても当てはまる事態となったということなのでしょう。

「『現実』が小説に打ち勝ち、小説家は報告者になりさがってしまった。」『トルストイかドストエフスキーか』白水社1968)

つまり、株価の変動の理由をニュースで後から報告しているのと同じで、思想家や批評家・学者は、出来事が起こった後で、その出来事を、自分たちが依拠している様々な理論によって辛うじて説明を試みているだけだということなのです。

これでは、日々の出来事が、インターネットをはじめとする様々なメディアで瞬時に伝えられ、常に新しい状況が展開されつつある世界の中にあって、個々の出来事の思想的な意味づけを主眼とする雑誌の力は衰えるしかありません。

しかも、出来事を解釈する理論自体に目新しさがないわけですから、出来事の新しさの迫力の前では、1ヶ月あるいはそれ以上遅れて出版される雑誌の影響力など、風前の灯火。なんといっても、インターネットを見さえすれば、数分単位で情報が更新されるわけですから。

ところで、この5月の最終週、私はインターネットを通じて、BRITAIN'S GOT TALENT(音が出る事がありますのでご注意!)という、6日間におよぶイギリスで放映された番組のコンテストを見ておりました。ええ、もう寝不足gawkでございます。

この番組、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、3年前には、ポール・ポッツ(Paul Potts)という名前のテノール歌手を見出した番組です。そして今年は、スーザン・ボイル(Susan Boyle)という名前の、スコットランドのとある村の出身の48歳の女性が華々しくデビューしたことで有名になりました。

この番組の影響力は超強力で、なんとYouTubeでの総閲覧数が、スーザン・ボイルさんの予選通過の模様を伝える動画だけで、3億回に近いとのこと。しかも、ファイナルステージの優勝者には、日本円にして1500万円相当の賞金と、エリザベス女王の前で演技をお披露目できるという特典がついています。今回の優勝者は、その約3億回閲覧されたスーザン・ボイルさんではなく、ダイヴァーシティ(Diversity)というダンスグループでした。

私のお気に入りは、スタブロス・フラットリー(Stavros Flatley)という親子のコメディ・ダンサーとシャヒーン・ジャファゴリ(Shaheen Jafargholi)という名前の12歳のシンガーです。

是非是非、その実力の程をYouTubeでご覧下さい。片や何とも言えない笑いがこみ上げてくるダンス。彼らのダンスは癖になり伝染します。そして片やマイケル・ジャクソンに優るとも劣らない歌唱力です。このシャヒーン君ですが、デイリーメイルによれば、彼には既にディズニーも目を付け、その実力を買ったとのこと。

さて、この番組、イギリスで放送されて大体30分ぐらいすると、インターネットでも映像のクリップが配信されるので、日本にいながらにして、番組を時間差で楽しめるのです。加えて、番組の配信と同時にThe Sunsunのような大衆紙からThe Daily MailTelegraphといった一般紙に至るまでが、この番組を話題にしているので、いろいろな事実に関する暴露情報を同時に得ることができます。

関係ないですが、今回、この番組を見ながら、はじめてThe Sunを読んでみたのです。なるほど、この手の話題、対象となっている人物を知って読むと、この新聞ほど面白いものはないような気がしました。あまりにパンチの効いた皮肉に、思わずゲラゲラhappy02笑ってしまったほど。

閑話休題。

というわけで、即時性に関しては、<新しい出来事>の圧倒的な衝撃に、批評が負けてしまうことは確かなようです。批評が出来事を意味づける前に、さらなる新しい出来事の情報が伝達されるので、批評が干からびてしまったように感じられるからなのだと思います。

しかし、先ほどのスタイナーが言っているのですが、批評には、「われわれがもたらした判断の変化が、絶対正しいものでもなければ、いつまでも永続きするものでもないということを」『言語と沈黙 上』せりか書房1969自覚させる力があります。

そしてそれに加えて、私が考えるに、自分たちの世界の現在のあり方が、どのようなものであるのかという事を認識させ、新たな世界を切り開いてくれる機能もあります。

人文学を研究する魅力もそこにあるのだと、例えば、古典研究の名著、エリック・A・ハヴロックの『プラトン序説』(新書館1997)などを読むと理解できるのですが、いずれにせよ、インターネット時代における批評のあり方を、本格的に考えなければならない時期に到達したのだと思うのです。

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『國文學』休刊と教養の喪失について

ブログのアクセス解析を見ていると、このブログも様々なキーワードで検索されている事が解ります。その中でも時折、なんでこんなキーワードでウチに来るのかと首をかしげてしまう言葉に、「ブラジャー・フェチ」や「ハイヒール・フェチ」があります。

不思議に思って、過去に書いた記事を見てみたら、神話学の手帖(へるめす通信)のコーナーで、以前にフェティシズムについて書いたことがあったからでした。

でもきっとやってきた人は、全く違うものを目指して、このブログに辿り着いたんだと思うと。。。

期待したものでなくて、m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン

それから、「あーた、どうみても、レポートのための検索ね!」とついつい断言してしまうような検索ワードもあります。

ところで、当ブログにやってきた5月17日のキーワード一覧を見ていたら、「国文学 休刊」というものがありました。

なぬっeye

と思って調べてみると、なんとあの日本文学研究を志した者ならば、一度は手に取った事があるはずの、學燈社の『國文學』が休刊になるというニュースが流れていたのです。coldsweats02

しかも、『國文學』だけでなく、受験の時にお世話になった人もいるはずの『學燈』も休刊とのこと。

そう言えば、この3月に『英語青年』も休刊になったばかり。

ですから、正直に言って、「うーん、そうか、やっぱり」という感じです。

そうそう、数ヶ月前に東京堂書店と紀伊國屋書店に行った時に気づいたのですが、日本文学の研究書の棚が、かなり縮小されていました。

とくに東京堂では、古代から近世までの研究書のコーナーが書棚一つになっていたので、もしかして、「日本文学は人気がないのか」とその時、痛感したのでした。

ところで、この休刊の背景を考えてみると、現代の若者が伝統的な教養を重視しなくなってきた文化状況が反映されているのかもしれない、と思ったりもするのです。

というのは、私の非常勤先の教え子で、ここ数年、日本文学(しかも古典研究)に進んだ学部学生が数人いるのですが、彼らや彼女らが読んでいる主な作品が、ライトノベル系列の本だという事を知って衝撃impactを受けたことがあったからです。

彼らは、古典とはいわないまでも、漱石・鷗外・芥川といった著名な作家が書いた文学作品や、それ以前の時代の書物を読む必要を感じていないようなのです。

そう言えば、以前、民俗学の研究職を志望していた学生がいたのですが、その理由を聞いたところ、ライトノベルやアニメの「もののけ」に興味を持ったからというものでした。coldsweats01

そして、学生が日本の文学作品の、中でも特に古典的な地位にあるものを軽視する状況は、海外の文学作品でも同じです。

たとえば、トルストイやドストエフスキーといった、一昔前なら、「やっぱり読んでおかないと恥ずかしいよね」と感じたであろう作品を気にも留めていないし、その事について、まずいとも思っていないようです。

昔、よく言われていたのは、日本の知識人の欧米崇拝。つまり、欧米の知識を重視する傾向が批判されていたわけですが、今は欧米の知識でさえ、吸収しなくちゃならないというような切迫感がなくなってしまっているのです。

ところで、アラン・ブルームが『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)でアメリカの伝統的な教養の喪失と相対主義の問題等を論じたのは、1987年のことでした。その中から私が感じた問題と関連のある節を2つほど引用してみます。

いずれにせよ、また原因が何であるにしても、いまの学生は読書の習慣と趣味を失っている。彼らは本の読み方も知らなければ、読書から精神の悦楽や向上を期待することもない。文化を気取ることがなく、高級文化(ハイカルチャー)に対する形だけの偽善的な脱帽など拒絶する点で、彼らは「自己に誠実」であり、一世代前の大学生と対照をなしている(p57、下線部筆者。)

大学教授がこれは絶対に確実だと言えることがひとつある。大学に入ってくるほとんどすべての学生は、真理は相対的だと信じていること、あるいはそう信じて いる、と言うこと。もしこの信念が正しいかどうかには検証の余地がある、という異論がでた場合、学生の反応は予期に違わないものである。すなわち、学生は 異論を理解しようとしないだろう。誰かが真理は相対的なりという命題を自明ではない、と見なしでもしようものなら、あたかも2+2=4に疑問を差しはさま れているかのように、学生は驚く。(P17)

日本も20年遅れで、価値相対主義の常態化に加え、社会的な会話を成立させる教養の、本格的かつ根底的な破壊状況に直面しており、しかも最終局面に到達しつつあるということでしょうか。

もちろん、インターネットによるコミュニケーションが、この状況の進展を加速化させていることは間違いありません。

また、ブルームが「彼らが『自己に誠実』」といっている点も非常に気になる点で、これは、現代日本における価値相対主義の浸透や、村上春樹氏の著作が、世代を超えて10代の若者にも広範に受容されている現状などと密接に関連しており、そしてもちろん、この「自己に誠実」という文言の内容が問われるべき問題なのですが、これらについては、現在計画中の著作の中で考察する予定でいます。

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自己実現のための勉強法(12)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(7)

自己実現のための勉強法の12回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の7回めです。

前々回から、自分の専門と異なるジャンルに触れながら、自分の中の井戸を何本も形成してきた人物として、山口昌男先生を取り上げています。前々回は先生が大量の書籍を購入しているという話、前回はこれだと思う著者の本は全て集めるという話をしました。

今回も引き続き、山口先生の井戸の多さの話、今回はとくにサブカルチャーに関するものになろうかと思います。

いつのことだったか、私と先生とで連れだって、映画movieの試写会に行った時のことです。その時は、まだ私は先生と連れだって、あちこちに行くようになってから間がない頃だったので、先生のなさることの何もかもが新鮮fishで、しかもどういうことをするのか、皆目検討がつかないという状態でした。

その時、JR線に乗ろうとして二人で改札を抜け、ホームに向かっていたのですが、足がだいぶ悪くなられていたため、先生は杖をつきながら、二人でゆっくりゆっくり歩いていたのです。ところが、先生はJRの構内にあるキヨスクの手前で、突然立ち止まり、私に向かって、「あそこにある新聞、買ってきて」と言ったのです。

(山口昌男先生のことだから、もしかして英字新聞か?!)と思った私は、「Japan Times ですか?」と先生に尋ねました。すると、先生は私の問いかけに答えず、一人で杖をつきながら前に進み、「これ!」と指さしたのです。

そこにあったのは、まんまるお目々のワンちゃんdog(いや猫catだったかも?)のイラストもかわゆい、『ビッグコミック・オリジナル』。。。

「いや、先生、それは新聞ではありませんが。。」という呟きは私の口から出ることなく、私は先生から預かった300円で、その雑誌を買い、かばんの中にしまったのでした。

さて、本題はその後。やってきた電車に乗ると、電車の中は混んでいて、座席は満席、ちらほら立っている人もいます。ですが、車両の一番端の3人くらい座れる席に座っていた老紳士が、杖をついている山口先生に、親切に席を譲ってくださいました。

「いや、ありがとう」と先生。「ありがとうございます」と私。いえいえ、とばかりに横に首を振る優しげな老紳士。彼は、電車の入り口付近の金属製の手すりで囲われた小さなスペースのところに、もたれかかりました。

空いた席に、「どっこいしょっ」とすわった先生は、目の前で立っている私に向かって、こうおっしゃいました。以下、先生と私の会話。

山口 「ほれ、あれ」。

私   「へ?」

山口 「ほれ、今買ったやつ」。

私   「え? あのー、今買った、雑誌、のことですか?」。

山口 「そうそう、それ、それ。それ、頂戴」。

私   「あ、はい」

そこで、肩から下げているかばんから、買ったばっかりの「ビッグコミック・オリジナル」を取り出し、先生に手渡した私。すぐさま、1ページめから貪るように読み出す先生。その目は、ふだん見たこともないほど輝いています。

(普段の先生は、何かを考えながらモノを見たり読んだりしているようで、目が真剣なのですが、漫画を読んでいるときは本当に楽しそう。この楽しそうな目つきを私が見たのは、お孫さんへのおみやげのおもちゃcarouselponyを買っている時くらいでしょうか。)

で、ふと視線を感じた私が、姿勢をおこして、辺りをみまわしてみると、さきほど席を譲ってくださった老紳士が、漫画を読み出した先生を見て、露骨に眉をひそめているのです。

「気の毒だと思って、せっかく自分が席を譲ってやったのに、いきなり漫画を読みやがって……」というようなところでしょうか。すごく不機嫌そうなのです。

「すみません、この人、ただの漫画好きのおじいちゃん、ってわけじゃないんです。あの山口昌男なんです。わかっていただけないと思いますけど、許してください」と私。もちろん、心の中で秘かにつぶやきました。

でも、老紳士の批判的な目線の意味するところもわかるなあ、と私は思ったのです。

たしかに学生や若いサラリーマンが電車の中でコミック雑誌を読んでいる姿はしばしば目にします。けれども、今、目の前で、「ビッグコミック・オリジナル」を読んでいるのは、75歳を過ぎた、れっきとした白髪の老人。しかも、その目はきらきらとして、早く先が知りたくて知りたくてウズウズしているのは、誰の目にも明らか。

そして、ここがポイントなのですが、「えっ、漫画なんか読むの?」とでも言いたげな眼光鋭い老紳士と同世代であるわけです!

つまり、老紳士が言いたいのは、本当だったら、電車で漫画を読む若者を注意すべき年齢でありながら、いっしょになって漫画を読むとは何事だということなのでしょう。

今でこそ、漫画が好きですとか、漫画を研究しています、などと大手を振って言えるようになりましたが、山口先生の世代はまだ漫画を研究対象とすることには偏見を持つ人が多かったと思います。

もちろん、忘れてはならないのは、山口先生が読んでいるのは漫画だけでなく、同時に専門書も読んでいるということなのですが、私が見ていて感じたのは、本当に山口先生はアバンギャルドな人だということ。知的な面において、常に攻めの姿勢を忘れないということ。これにはたいへん感心します。

ちなみに、山口先生は、電車に乗っている時には、必ず何か本を読んでいました。今回の場合は、コミック雑誌ですが、古本目録であることも多かったです。時間活用術として、見習う必要があると思います。

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自己実現のための勉強法(11)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(6)

自己実現のための勉強法の11回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の6回めです。

前回は、自分の専門と異なるジャンルに触れ、自分の中の井戸をたくさん持つ事例として、山口昌男先生を取り上げ、とくにその本の買い方について、量の側面からお話ししました。

自分の中の井戸に水を満たすためには、せっせと情報収集に努めなければならないわけですが、そうすると、持っている井戸の数に応じて、読まなければならない書籍の数も増えていくことになるわけです。つまり、その人が持っている書籍の数は、ある意味で、自分の井戸の数のバロメータにもなるわけです。

ですから、山口先生が買って持っている書籍の多さというのは、先生の井戸の多さを示しているといえるわけです。

さて、今回のトピックは、山口先生が買っている本の質の面(つまり、先生の井戸はどういう性質を持っているのか)についてです。

私が一番驚いたのは、山口先生は一度「この人の書くものは面白い!」と思ったら、その人の書いたものをとにかく収集しまくる、ということです。

けれども、これだけだと、私が何に驚いたか、ピンとこないと思いますので、あるエピソードを御紹介しましょう。

ある時、私が山口邸を訪れていたときのこと。先生がこの前、東京堂から買ってきたという新刊書が、居間のテーブルの上に積み上がっておりました。先生と雑談しながら、私は新刊書を一冊ずつ手にとって見ていたのです。

すると、ちょうど私にコーヒーを出してくださっていた奥様が、私の手元を見て、「あら?」と言うではありませんか。

不思議に思って、自分が持っている本のタイトルをじっくり眺めてみると、それは次の本だったのです。

鷲田小彌太・広瀬誠『論文レポートはどう書くか―テーマの決め方から文章上手になるコツまで』日本実業出版社

奥様はそれを見て、
「お父さん(=山口先生のこと)、なんで論文の書き方なんか、買ってるの? もう一度、論文の書き方を勉強するの?」
とおっしゃるのです。

「ええーっ!! 必要ないでしょう、先生!」と心の中で叫んだ私。奥様の言葉を聞いて心底驚いたのですが、先生がおっしゃった言葉を聞いて、二度びっくり。

「いや、彼(=鷲田小彌太氏)の本を集めてるんだ」。

要するに、ある人の仕事が面白いと思うならば、子供向けに書かれていようと、学生向けに書かれていようと、共著であろうと、本の性格を問わず、その人の書いたものを全て集める。おそらく、それは、書籍の形になっているものだけでなくて、大学紀要に書かれた論文も、別の人が書いた文庫本の後ろについている短い解説であっても、別の人の単行本の帯についている短い推薦文でさえも、その人が書いたものであるなら、問答無用で収集するということなのでしょう。

75歳を過ぎ、100冊以上もの本を世に送り出している山口昌男先生が、論文の書き方の本を買っているのを見て、私は、この情報収集力は本当にすごいと感服したのでした。

そして、私は、おそらく山口先生は、ご自分の著作に必要なデータもこの持続的な収集力によっているのだということに思い至り、なんというか、「先生の仕事は信じられる」というような感慨を持ったのです。

なぜなら、ここまで徹底して情報収集をした後で、情報を取捨選択して、本当に必要な情報だけを自分の著書に投入しているわけで、調査不十分のまま、ありあわせの情報だけで本を書いているのではないということになるからです。

インターネットが発達し、コピー&ペーストでレポートができてしまうこの時代、山口先生の情報収集の仕方は古いのかもしれません。ですが、こだわりの著者を持ち、その仕事を追っていくという地道な作業は、その著者を通じて自分の知らなかった世界を知るという点においても、必要なことなのだと思います。

*本文とは関係ありませんが、私自身、これまで大学で教えてきて、学生のコピー&ペーストによるレポートで随分がっかりしてきました。当初は、このレポートはなかなか面白い、あの学生は優秀だと思っていても、ネットで調べてみると、あるホームページの写しだったということが多々あったのです。

レポートがコピー&ペーストによって書かれていると気づいた年は、提出されたウン百枚のレポート全てに対して、ネット上で検索を行い、コピー&ペーストによって書かれたレポートかどうかの判定を行ったこともありました。

その作業で疲れ果てた私は、その後、不本意ながらレポートはすっかり止め、代わりにテストを行うようになりました。学生の素の実力を知るには、それしかないと考えての措置なのですが、非常に残念な事態です。

何十枚ものレポートでなくても、ほんの少しの文章(たとえば、誰の本が面白いとか、誰の何の曲がよいというような感想程度のもの)を書くのでも、インターネット上の誰かの見解を参考にしなければ書けない学生もいます。そうすると、これは知の形成という点で、これからますます大きな問題となっていくと思います。

さて話を元に戻しますが、山口先生流の知の収集方法は、『遊星群』でその蒐書家(しゅうしょか)としての力量を窺い知ることのできる、書誌学の権威・谷沢永一氏によっても推奨されています。引用してみましょう。

(前略)自分のひいきの作者、ライターを持つことである。どの領域でも良いし、誰でも良い—松本清張でも、吉行淳之介でも、長谷川慶太郎でもいいが、その人物の全著作を、別に読まなくても良い、集めることで、自分の手許にひいき力士を抱えているような、一つの知的な、余裕のある楽しみを持つことが必要であると思う。

男のいちばんの道楽は、横綱に肩入れすることだといわれる。有望な力士を幕下のころから後援する。そしてその力士が横綱になったときに、たとえば「おい、今晩はこの座敷に北の湖を呼ぼうではないか」そこで北の湖が本当にやってくれば、男としてこれほど豪華な遊びはなかろう。東京一の名妓を呼ぶなどの比ではない。つまりそこにタニマチの醍醐味がある。

とするならば、われわれは自分のささやかな家に一人のひいき作者の書物の一群を蓄えることによって、私はこれをひいきにしているのだという余裕、あるいはゆるやかな気持の楽しみをもつことができるはずである。(谷沢永一『論より証拠 谷沢永一の読書術』潮出版社:p27-28)

もし、世に出たばかりの著者に目をつけ、その著者が徐々に有名になっていったとしたなら、自分の眼力が正しかったことになります。そういう醍醐味もあると、谷沢氏は述べているわけです。

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