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2005年8月の25件の記事

2005/08/30

ダンサー・イン・ザ・ダーク(Dancer in the Dark,2000)

こちらもトリアー作品。彼の作品はのろのろと始まるのですが、途中から時間の経つのを忘れます。

ドキュメンタリー映画かと思わせて、実は異色のミュージカル。主演のビョークが橋の上で歌うシーンは、映画史に残る(と思われる)美しい場面です。

奇跡の海(Breaking the Waves,1996)

私が最近注目し、仕事を追っているのは、この作品の監督と脚本を務めたラース・フォン・トリアー氏です。日本で出ている彼の作品は、全て見ました。最初期の作品を除いて、どれもなかなかの出来ですが、とりわけ、これと「ダンサー・イン・ザ・ダーク」がすばらしいです。

ムトゥ踊るマハラジャ(Murhu,1995)

単純な勧善懲悪の物語かと少々バカにしながらも、楽しく見ていましたが、ある場面で、すさまじいセリフが登場し、胸打たれました。

「だますより、だまされる方が罪深い。」

また、主演ラジーニカーントが歌う冒頭の歌は宗教的な示唆に富んでいます。

インドは深い!
邦訳付ではありませんが、映像がありました。

死と処女(おとめ)(Death and the Maiden,1994)

タイトルはシューベルトの遺作である弦楽四重奏曲・第14番ニ短調「死と乙女」から取られています。もとはアリエル・ドーフマンの戯曲ですが、戯曲も映画も、安易な方向へ流されず「人間」を描ききった結末がすばらしいです。

プロモーション・ビデオで演奏されている曲の冒頭部分が、映画の中の象徴的な場面で繰り返され、見終わった後、忘れられなくなります。

カイロの紫のバラ(The Purple Rose of Cairo,1985)

虚構と現実について考えさせられる作品。ウッディ・アレン監督の芸術的才能をひしひしと感じます。

ラ・マンチャの男(Man of La Mancha,1972)

監督良し、脚本良し、俳優良し、音楽良しの完璧な作品。

ただただ、大勢の人に見て欲しいです。作品の構造、鏡の用い方等々、分析にあたってこの上ない素材ですが、下手な分析は不要と思わせる力があります。

特筆すべきは、主演のピーター・オトゥール。彼以外のドン・キホーテは考えられない。そう思わせるほどの名演を見せています。

ただ、彼の歌の部分は吹き替えだそうで、それが少々残念です。(声があまりにも似ていて、演技に劣らぬ迫力があるので、最初は全く気づかなかったほど。)

吹き替えだからといっても、オトゥールの価値が損なわれるわけではなく、セリフの場面も圧巻です。とくに、主人公の「セルバンテス」が劇中劇の主人公「ドン・キホーテ」へなりかわる場面のピーター・オトゥール渾身の口上が見ものです。

この口上が試聴できます。

こちらから飛び、飛んだページのListen to Samples の2番(Man of La Mancha)をクリックしてみて下さい。

また、テーマソングは、YouTubeでどうぞ。

キャバレー(Cabaret,1971)

とにかく、人間の心理を描ききった脚本が素晴らしい。自己卑下、自己顕示、他人を支配したいという欲望、愛に対する渇望などが、驚くべき方法で映像化されています。

特筆すべきは、時代状況を人間心理の点から、見事に表現していることです。ナチスの隆盛は、通常の人間心理の一側面の派生型であることが、よく理解できます。

シェルブールの雨傘(Les parapluies de Cherbourg,1964)

オペラのように、セリフ全てが歌になっています。通常の映画に見慣れると、一見不自然で作り物めいて映りますが、その実、透徹した自然主義がうかがえる傑作です。

回転木馬(Carousel,1956)

原作はモルナールの『リリオム』。

原作よりも圧倒的に映画の方が良いです。本当に、どうして、どうして、こんなに感動的な脚色ができるのか?! 脚本を担当したオスカー・ハマースタインⅡ世は天才だと思ってしまいます。

私はこれまでに大量の映画を見てきました。それでも、映画を見て、しゃくり上げるほど泣いたことは、本当に少ないのですが、これはその貴重な一本です。

ところで、このタイトルの「回転木馬」には、かなり深い象徴的意味が隠されていると思います。

「回転木馬」は、真に新しい人生を歩もうと決心した時に、そうさせまいとして人間を誘惑するものなのです。

人は、上下に揺れ動く白い馬の背に乗っていさえすれば、居心地の良いきらびやかな世界の中にとどまり続けることができます。

それはある意味で、甘美であるし、楽でもある。だから人は、回転木馬の誘いに抗しきれず、今までいた場所にとどまり、同じところを回り続けようとするわけです。

この回転木馬の誘惑は、人生の至るところに潜んでいます。

例えば、素直になれず、ほんのちょっとの意地を張り続けることによって、あるいは親の悪い生き方を周囲から揶揄され、卑屈になることによって、ますます人生の悪い回転に加速がかかり、抜け出ることができなくなります。

ある意味で、回転木馬の誘惑にのる方が、楽であり甘美なのです。

けれども、その回転から勇気と信念を持って出ようとすることが大切なのだ。たとえ、それが今は暗い道のように見えても、そのまま歩いていけば、黄金の空が見えてくる。だから、自分の足で一歩を踏み出すのだ。

それが、この映画のメッセージです。

ちなみに、この人生の回転のことを、仏教的に解釈すれば、「輪廻(りんね)」ということになると思います。そういう意味で、宗教的にも重要な意味を持つ作品です。

ショウ・ボート(Show Boat,1951)

憎むほどに、ひどいことをされた相手でも、罵りたい気持ちを抑えて許す。これこそが、自分を幸福にし、相手を幸福にし、ひいてはすべての人間を幸福にすることなのだと思わせる作品です。

劇中に流れる、オスカー・ハマースタインⅡ世作詞、ジェローム・カーン作曲の“Ol' Man River”は感動的で、ミュージカル史上に残る名曲だと思いました。

 “Ol' Man River”がアップされていました。お聞きになりたい方はどうぞ。

主人公を演じたキャスリン・グレイソンは、オペラ歌手並の歌唱力を持つミュージカル・スターですが、歌ばかりでなく、憎んでいるのに愛している心の葛藤をもよく演じています。

『ザッツ・エンターテインメント Part3』によれば、エヴァ・ガードナーは、歌の猛練習を積んだにもかかわらず、結局歌の部分は吹き替えになってしまったそうですが、それを差し引いても、素晴らしい演技でした。

会議は踊る(Der Kongress Tanzt,1931)

名作、名作と謳われているこの映画。なぜにこれが名作かと疑う場面もありましたが、見終わった感想は「やはり名作だった!」。

誰もが「堪える」という行為を嫌なものととらえているはずなのに、相手の幸せを願って堪えている人間を美しく感じるのは、どうしてなのでしょうか。

テーマ・ソングである“DAS GIBT'S NUR EINMAL”。

まだ、YouTubeが無かった時代、私は、どうしてもこの曲が聴きたくて、ドイツからCDを取り寄せました。

タイトルは、“200 DEUTSCHE ORIGINAL TONFILMSCHLAGER”で、このCDでは映画で流れているオリジナル版を聞くことができたのです。


曲は2分30秒あたりからはじまります。

悪太郎(1963)

原作は稀代の大僧正、今東光。

私の見たところ、彼は自らの仏教観を難解な仏教用語を用いて説明する方法をとらず、誰でもが親しめる小説の中で具体的に描きました。

青春期の情熱と残酷さを交えたその小説を、鈴木清順監督が心痛むほどに見事に映像化しています。「悪太郎」はまさに仏教の滋味を感じさせる佳品です。

秋刀魚の味(1962)

小津安二郎監督の最高傑作はこの作品だと、私は思っています。

小津監督は早い時期から仏教を(隠れた)テーマとしているのですが、この「秋刀魚の味」以前の作品では多弁すぎたり、直接的すぎたりと、少々物足らなく感じていました。

この作品で、小津氏は娘を嫁に出した親の寂しさのみならず、人間の存在自体の苦しみをも見事に描き出しています。

石中先生行状記(1950)

石坂洋次郎の原作を、三話のオムニバス形式に仕立てた成瀬巳喜男監督の作品。

二話目もいいけれど、なんといっても三話目が味わい深いです。

若き三船敏郎氏と若山セツコ嬢が、みずみずしい演技を見せています。特に、「青い山脈」で黒縁眼鏡をかけていた若山セツコ嬢の、眼鏡をとった時のかわいらしさにびっくり! 

後年の彼女の人生を思うと、ますます切なさがつのります。

残念なことに、DVDが出ていませんので、映画館とかで上映が行われる際には是非ご覧下さい。

青い山脈(1949)

戦後、借り物の民主主義でよたよたのスタートをきった日本を象徴的に描いた作品。

「青い山脈」の歌をバックに、それぞれが自転車に乗って海岸に向かう場面は感動的です。

ところで、映画のはじめの場面で、校長室で花を生けている少女がいます。この女学生が誰で、その後作品の中でどのように位置づけられているのか。ここに着目してみると、人間観察眼に優れた、卓抜した脚本であることがわかります。

ちなみに、戦後における石坂洋次郎の諸作品についての拙論があります。これまでの石坂洋次郎の評価を、戦後の思想・文化史の中で再考したものです。興味のある方は、仕事の紹介の「壊れた世界と秘匿された“自然”」の内容紹介をご覧下さい。

2005/08/15

手のひらの歴史

Photo

「そらっ、買ってきてやったぞ。」
目の前に、茶色の包みがどさっと置かれた。
<何だろう?>と、がさごそ音をたてながらセロテープをはがす。書店の封筒から出てきたのは、五センチほどのなんとも分厚い本だ。
「これ、なあに?」
 小学校一年生の私は、あんちゃんの顔を見上げる。すると、
「お前、本が好きだろ。いろんな本、あっという間に読んじゃってるじゃないか。でもこれなら、すぐには読めないぞ。いいだろ、これ。」
 早口でそう言って、ギョロ目を細め、照れくさそうに微笑んだ。お礼を言う暇さえ与えず、右手でごしごしと私の頭をなでる。汚れたエプロンからは、日頃吸っている煙草の匂いがした。
 「あんちゃん」は本物の兄ではない。母の姉の子供、つまりはイトコに当たる。二十も年の離れたそのイトコと、私は夏休みの間、時にはじゃれあい、時にはからかわれて、ぷーっとふくれながら、大半を一緒に過ごした。
 あんちゃんは、外房の海に面する小さな旅館の跡取り息子で、中学卒業後、すぐに板前として家業を手伝った。あんちゃんの母、私の伯母はそこの女将である。仲居は伯母の妹たちだ。母も一人娘の私を連れ、旅館で働いていた。
 思い返せば、昭和五十年代の海辺の旅館は、なんと賑やかだったことだろう。七月中旬からお盆までのほぼ一か月、猫の子一匹泊まれないほど、日々満員御礼の状態であった。
 子供とはいえ、私も遊んではいられない。あんちゃんの作る茶わん蒸しの卵の数を数え、刺身のツマの大根を盛り付ける。
 そして、お客様に食事を出し終えた頃、やっと休憩時間が来る。空の食器が下がるまでのほんの三十分。食器棚の前で腹這いになりながら、あんちゃんのくれた本を読んだ。
  『お話宝玉選』と題されたその本は、不思議な本だった。キリストやマホメット、ブッダの話、中国や日本の古典、イソップ物語、……。そんな一切合切の世界中の物語が、コンパクトにまとめられていた。
 食器がかちゃかちゃ鳴る音、お母さんと子供の笑い声、宴会から漏れてくるどんちゃん騒ぎの手拍子、芸者のお姐さんが弾く三味線の音色。ざわめきのただ中で、私は、めくるめく物語の世界に酔った。慈悲深い光明皇后にジーンとし、狂言「ぶす」に笑い転げ、彦一のとんちに唸ったのである。
 それから二十三年後の平成十一年十一月、あんちゃんは胃ガンでこの世を去った。海辺の旅館は長い不況に耐えきれず、金銭的なやりくりで相当悩んだ末の死であった。享年五十歳。お嫁さんの来手もなく、一生のほとんどすべてを小さな旅館で魚を焼いて過ごした。見る人から見ればつまらない人生だった。
 お葬式に参列しようと、朝一番の電車に乗った私は、旅館での日々が思い出されてならず、窓の外を眺めながら滲む涙を拭き続けた。朝日を浴びてキラキラ光る外房の海は、海水浴客で賑わった夏の旅館、一人っ子の私を実の兄以上にかわいがってくれたあんちゃん、むさぼるように読んだ本、を思い起こさせた。
 私はうかつにも、ずっとそれを忘れていたのだ。そして、お礼さえ言わないまま、あんちゃんを逝かせてしまった。ぶっきらぼうに置いた本の重たげな音。汚れたエプロンと煙草の匂い。頭を撫でてくれた手の感覚……。溢れ出た記憶が一気に胸をしめつけた途端、私は激しく泣いた。
 はるか昔の小さな出会いが、一生を決めることがあるとつくづく思う。特に子供は誰かに貰ったその種を、何年も、何十年も温めているものだ。きっと、いいことも悪いことも、そうなのだろう。
 神話を読んでいると、あの頃読んだ物語に再会することがある。そのたびに、私の中のささやかな歴史が、ひっそりと死んでいったあんちゃんの手のひらから始まったことを、胸を焼き尽くすほどのなつかしさとともに、思い出すのである。

♣『歴史読本』2004年7月号に掲載したものを修正して転載しました。

2005/08/11

へるめす通信4

いたずら者のトリックスターには、夜のイメージがまといつく。

人目を忍ぶいたずらには、太陽神ヘリオスが大地の下へと隠れ込む夜こそがふさわしい。だから、彼の真に活躍する場所は、夜の闇の中である。

夜が来た。

ヘルメスは真っ先に神々の山へ向かった。目指すは、その山で草を食べている牛たちである。

この牛たちは、そもそもがアポロンの持ち物であった。ところが、ヘルメスにはそんなこと、おかまいなしである。

彼は、この牛の中から、まずは50頭の牝牛を取り分けた。そして、その牝牛たちを後ろ向きに歩かせながら、アルペイオスの河へと追い立てる。そこで、火をおこす。

さらに、その中の2頭の牛を引きずり出し、地面に投げ倒し、皮を剥ぎ、背骨を差し貫いた。そして、切り取った肉を火にかざし焼いたのである。

だが、ヘルメスは、この肉を自分が食べるために焼いたのではなかった。

もちろん、焼いた肉のあまりの香しさに、一瞬、食べたい誘惑にかられることもあった。が、そこはぐっと我慢して、彼は肉をオリュンポスに住む神々に捧げたのである。

夜中かかって一仕事終えたヘルメスは、家に戻った。そして何事もなかったかのように、まるで「僕はいたいけで無垢な赤子なので何も知らないよ」といわんばかりに、揺りかごの中で丸まって眠ったふりをするのである。

そこへやってきたのが、怒りに怒ったアポロンであった。

2005/08/10

へるめす通信3

ヘルメスは、生まれたその日に揺りかごから起きあがる。その直後から、大人も真っ青のいたずらが始まる。それは、いたずらというよりも、乱暴といった方がふさわしい。

ヘルメスがどんな乱暴をしたか、その所行を知ると、彼はなんてふてぶてしいのだろうと思う。彼の生まれ持った性格は、おそらく一生直らない。そう思う。

例えば、彼が、母親の胎内から生まれ落ちて真っ先にしたことは何か。

彼は、少しの間、おとなしく揺りかごの中にいたけれども、すぐに跳び起きて、家を出ようと戸口のところまで行く。そこで、這っていた亀を見つけると、

 「これは早々に縁起がよい。」

などと、およそ赤ん坊らしからぬ言葉を吐くや、亀をひっくり返して、まずはその肉にぐさっと小刀を突き立てる。肉をえぐり出す。そして亀の甲羅に弦を張り、竪琴を作るのである。

これがヘルメスの竪琴で、この竪琴を奏でながら、ヘルメスは即興で歌を歌う。その歌も竪琴の音もひどく美しく、見事なもので、かつて聞いたことがないほどのものだったという。

残虐性と芸術性の共存。無垢な赤子の外見で、意図的に悪事を働く矛盾。これがヘルメスの特徴である。
 

だから、こんな美しい竪琴を弾いて美しい歌を歌っていても、ヘルメスが心中、別のことを考えていたのは、不思議なことではない。彼の心を占めていたのは、実は、盗みのことだった。

2005/08/09

へるめす通信2

「翼の生えたブーツ」を履くヘルメス神は、風采に似合わず、たいへんないたずら者である。

いたずら者というよりは、乱暴者と言った方がふさわしい。

なんたって、母親の胎内から生まれ出たその日に、もういたずらをしているというのだから、いたずらにも程がある。筋金が入っている。

ところで、こんなふうに、いたずらをすることで世界に混乱を引き起こし、結果として、世界に新しい秩序を作ってしまうキャラクターのことを、トリックスターという。だから、もちろんヘルメスもトリックスターである。

そうだとすると、松田聖子嬢もトリックスターといえるのではないだろうか。

その昔、彼女が正統派アイドルだった頃から、もうすでに、いつか彼女が芸能界のトリックスターになると期待されていたのかもしれない。

『赤いスイートピー』の中の「翼の生えたブーツ」という歌詞は、まさにアポロンの予言だったのかもしれない。

なんたって、聖子嬢はその後、フェミニズムその他の議論の中心人物となり、芸能界の既存の秩序をぶち壊すような存在になっていったのだから。

彼女は芸能界のヘルメスなのである。

ちなみに、ヘルメスは、「翼の生えたブーツ」以外に、(私だったら涎の垂れそうな)黄金の杖や、聞くだけで人の心をとろかす竪琴などを持っていて、とてもうらやましい。

いたずら者なのに、何者なのだろうか。

2005/08/07

差異空間って、何?

 天石屋戸に籠もったアマテラスを外に引き出すため、アメノウズメは八百万の神々の前で、乳房と陰部を見せて踊った。それを見た神々は、高天原が揺れるほどどっと笑った、と『古事記』には書いてある。
 けれども、なぜウズメが陰部を見せ、なぜに神々が笑ったか、その理由はつまびらかでないから誰にもわからない。わからなければ放っておけばよいのだが、学者とは放っておけない因果な商売である。そこで何とか説明しようと、頭を悩ます。
 ある人は、ウズメの仕草が滑稽だったから神々が笑ったのだという。またある人は、陰部を見せるのが一種の呪術だと考えた。
 フーコー流にいうならば、この神話は、現代とは異なる認識基盤(エピステーメー)のもとにあったということになろう。ウズメは、古代のエピステーメーを解読する手がかりだというのである。
 筆者ならば、ウズメの神話を「差異空間の神話」と呼ぶところである。要するにわけのわからない神話ということだ。
 このように理屈づけはさまざまだが、当の神々の笑いの理由はやはり不明である。
 ところで、こうしたわからなさは古代の神話にばかりあるのではない。私たちの身の回り、いたる所にちらほら見える。
 スカートの汚れに頓着せず、駅のホームにべったりと座り込む女子高生。揺れる電車の中、人目もはばからず、まつげカールに余念のない女の子。髪は茶髪を通り越し、目にもまばゆい金髪だ。
 モラルの低下を唱えることはたやすい。が、実のところ、彼女たちには同じ時代を生きる者に、どこか違うぞと思わせる、一種のわけのわからなさがある。ならば、ウズメの神話と同じではないか。はたして、彼女たちのエピステーメーとは何か?
 彼女たちは、時代を読み解く鍵である。現代のアメノウズメである。茶髪金髪が理解できないで、ウズメの神話が理解できるとは思えない。現代における「差異空間の神話」がここにある。

♣『現代思想』2002年5月号「研究手帖」に掲載したものを修正して転載しました。

『猫はなぜ絞首台に登ったか』の訂正(改訂)一覧

◆初版の訂正箇所は以下の通りです。

口絵(図21)デメテル像の解説「芥子とトウモロコシの花を」          →「芥子と穀物の花を」

 24頁後ろから5行目「これが、トム・ネロの残虐行為の第三段階の版画です

→「これが、「残酷の四段階」の第三段階の版画です」

64頁前から8行目「ギリシアの哲学者プラトンは」

→「ギリシアの哲学者は」

90頁後ろから3行目「ギリシア神話のクピド」

→「ギリシア神話のエロス」

95頁後ろから1行目「バフチーンは指摘しています」              →「バフチーンは述べています」

114頁前から1行目-10行目(訂正後の文章のみ掲載)               →「中でも注目されるのが、十三世紀から十四世紀の中部イタリアの絵画です。そこには、右手は天国へ行く善人への祝福を示すために高く持ち上げ、左手は地獄に落ちる人々に地獄の口を示すかのように低く下げているキリストが描かれています(若桑みどり『イメージを読むー美術史入門』四五頁)。13(口絵)のミケランジェロの絵画も、右手が高く左手が低いことから、この流れを汲んでいるといえます。ただし、ミケランジェロの絵の場合は、右手が刑罰、左手が救済というふうに、意味が逆転しているとの指摘もありますが、少なくとも、それぞれの手に優劣がつけられていると考えられるのです。
 
ただし、左右のいずれが優位かは文化によって異なります。たとえば、日本神話において、太陽神であり、最高神でもあるアマテラスは父親の左目から誕生し、夜の支配する国を治めるツクヨミは右目から誕生しています。」

116頁前から8行目「けれども、少し考えれば」                 →「少し考えれば」

117頁3行目「揚げ足取りをしている」 
→「揚げ足を取っている」

118頁前から8行目「「男/女」=「陽/陰」という図式」          →「「男/女」=「陽/陰」という区分

129頁前から4行目「爵位を得者たち」                    →「爵位を得者たち」

129頁後ろから4行目「位置するのはナイトで、その次は従男爵。」
→「位置するのは従男爵で、その次はナイト。」

139頁前から5行目「確かに、(図14)には、」            

→「(図14)には、」

 144頁前から1行目「妨げになると判断したようなのです」         

→「妨げになると判断し、名称を変更したようなのです」

150頁後ろから2行目「オーディンへの箴言」
→「オージンへの箴言」

 165頁前から1行目「それまでですまじめに」             

→「それまでです。しかしまじめに」

165頁前から6行目「としか言えないのです。ですが、」          

→「としか言えないのです。けれども、」

 165頁後ろから1行目「停止させることなのですが、象徴的な」          →「停止させることであり、象徴的な」

 203頁後ろから1行目「ところで、この「死と再生」という難問」      

→「ところで、生と死という難問」

 206頁後ろから1行目「これが私たちの生き方なのです。」         

→「(トル)」

へるめす通信1

♫ I will follow you 翼の生えたブーツで、

 I will follow you  あなたと同じ青春 走ってゆきたいの ♬
     
(作詞、松本隆さん 作曲、呉田軽穂こと松任谷由実さん)


これは、松田聖子嬢の代表曲『赤いスイートピー』の二番の歌詞である。この歌について、たわいないけれども、忘れられない思い出がある。

かつて、(この私にもあった)中学校時代でのこと。同級生の女の子と、我らがアイドル聖子ちゃんの新曲を口ずさみながら、学校の廊下を歩いていた。

なんたって大ファンなものだから、二人ともあっという間に歌詞を全部覚えてしまっているのである。

その時、ふと彼女が「翼の生えたブーツだと、走りにくいと思わない?」と尋ねたのである。

その質問になんと答えたか、肝心の自分の返答は、すっかり忘れてしまっているのだが、彼女のこの質問だけは、なぜだかずーっと記憶に残っている。

たぶん、私は「翼の生えたブーツ」なるものがあれば、かわいいから是非とも欲しいなと思っていたので、反応の違いにびっくりしたからだと思う。

その後、羽根飾りのついたブーツ、そしてできれば茶色じゃなくて、翼にふさわしく白いやつがないか、近所の靴屋で探した記憶もある。

ところで、大人になってから、私は「翼の生えたブーツ」の正体を知ることになる。

実は、これ、ギリシア神話に登場するヘルメスが履いているものであった。正確に言うと、ヘルメスが履いているのは、翼の生えたサンダルなのであるが。

驚いたのは、このヘルメス、女性ではなくて、うら若き男性の神なのだ。男性の割に、おしゃれなものを履いているじゃないか! ヘルメスよ。

けれども、ヘルメスは、おしゃれのために、これを履いているわけではなかった。

彼のいでたちといえば、

頭につば広の帽子・ペタソス、Photo_6

手には黄金の杖・ケーリューケイオン。

竪琴を弾いて歌を歌い、

翼の生えたサンダル・タラリアで、遠いところをひとっ飛び。            
彼は、神々のメッセージを伝える役を果たしているのだった。 

 (壷絵は、Art and Myth in Ancient Greeceより。壺絵をクリックすると拡大します。)


「ねえ、ねえ、このこと知ってた!?」と、同級生の彼女に言ってみたいなあと思うのである。

でも、今の彼女はおそらく、そんなことをつぶやいたことすら、忘れてしまっているに違いない。

そして私は、彼女が今どこに住んでいるのか、どんな人と結婚しているのか(あるいはいないのか)、どんな生活を送っているのか、知ることもない。ヘルメスがここにいたら、彼女の様子を見てきてもらうのに。

そして、あれから、あなたはあなた自身の「翼の生えたブーツ」を見つけた? 

そう、聞いてきてもらいたいのです。


2005/08/05

ママの思い出(I Remember Mama,1948)

映画だけでなく舞台でも見ましたが、どちらも泣いてしまいました。これを見ると、純粋な善意の存在を無性に信じたくなります。

『猫はなぜ絞首台に登ったか』への書評など

2007/6/19

書評「猫と新歴史学」
KINOKUNIYA書評空間BOOKLOG 高山宏の「読んで生き、書いて死ぬ。」


2004/9
 

要注目!新書『諸君』(宮崎哲弥さん)。その後、『新書365冊』(朝日新書)に収録されました。

2004/9 

書評『論座』(長山靖生さん)

「動物虐待の読解をテーマとしつつ現代人が神話学を学ぶ価値を訴える」

2004/7/21 

紹介記事『ダカーポ』「猫好きは読めない? 絞首刑になった猫」

2004/7/11 

文庫・新書『朝日新聞』朝刊

2004/7/ 

読書月録2004年7月(新潟大学教授・三浦淳さん)

『クソマルの神話学』への書評など

2007/6

論考:佐佐木隆著『日本の神話・伝説を読むー声から文字へ』(岩波新書)
第2章第4節「謀反を起こして死んだ夫婦」にて引用・論述されました。

2004/4 

書評『山口昌男山脈』No.4(淺野卓夫さん)

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2004/4/

人気作家64人大アンケート2003年に読んで印象に残った本『活字倶楽部』2004冬号(榎田尤利さん)

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2003/10/11

インタビュー記事『産経新聞』(稲垣真澄さん)「神話の中の奇妙な"生理行為"『クソマルの神話学』を著した東ゆみこ氏に聞く」

2003/12/29

2003年記者の三冊『産経新聞』(稲垣真澄さん)

2003/12/14 

書評『読売新聞』朝刊(荻野アンナさん)「黄金のテーマ読み解く」

2003/11/30 

書評『中日新聞』『東京新聞』朝刊

2003/10(第4週) 

時事通信文化部 Bookレビュー(武秀樹さん)

配信された新聞:『中国新聞』(19日)『神奈川新聞』(26日)など

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