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2005年9月の3件の記事

2005/09/23

へるめす通信7

さて、いよいよアポロンとヘルメスの対峙する時が来た。

怒り狂ったアポロンが洞窟に入ってきたのを見るや、ヘルメスは赤ん坊のふりをする。

誰もが彼を赤ん坊と言うだろうし、外見は確かに赤ん坊なのだが、とにかく彼は、自分を赤ん坊とは決して思っていないから、しつこく赤ん坊の「ふり」をする。

子供らしさを装って、産着をまとって丸くなり、今にも眠りにつこうとする態勢をとる。けれども、脇の下にはしっかりと、お手製の竪琴を抱えていた。

このあたり、1979年制作の映画『ブリキの太鼓』の主人公オスカルを彷彿とさせる。3歳の時、オスカルは、大人の醜悪さに愛想が尽き、自分の意志で大人になるのを止めた。

以来、ブリキの太鼓を叩き続け、自分の特異な外見を見せ物にしながら生きていく。

奇声を「きゅーっ」とあげるとガラスが割れる。そんな特殊能力も身につけた。女性と性的関係も結んだ。

けれども、彼の外見は、彼が再び成長しようと決心するまで、子供のままであったのだ。

幼児の外見に大人の智恵がつまった異形のヒーロー。

日本では、古くは神話の中のスクナヒコナ、現代ではアニメ『名探偵コナン』の江戸川コナンというところであろうか。

面白いことに、その逆の神もいる。大人の外見に子供の精神が宿るのは、日本神話最大のトリックスターと言われるスサノヲである。

けれども、ヘルメスがどんなに取り繕おうと、アポロンにはお見通しである。アポロンは館を探索した後で、いよいよヘルメスを尋問する。

「牛について白状しろ。さもないと冥界タルタロスに、おまえを投げ込むぞ。そうなったら、誰もおまえを助けることはできない。」

もちろん、正直に答えるヘルメスではない。彼は、まず、しらばっくれるという作戦に出た。

「ひどい、ひどすぎます。僕はあなたの牛なんて、見たことも触ったこともない。昨日生まれたばかりの僕が、そんなことできるわけがない。今の僕に必要なのは、眠りやお母さまのおっぱい、産着やお風呂であって、牛追いなんかじゃありません。僕は悪いことなんか、していません。お望みなら、お父さまのゼウス神の頭にかけて、誓いをたてます。」

2005/09/20

へるめす通信6

そもそもアポロンは、なんでヘルメスの洞窟の家にやってきたのか。

それは、(当然のことながら?)すっかり有名になったアポロンの予言の能力によって、である。

驚くべきことに、アポロンは、翼の細長い鳥を見て、瞬時に牛殺しの犯人がヘルメスだと悟ってしまったのだ。

どうも、鳥を見て占うというのが、アポロンの得意技のひとつであったらしい。

鳥のどこを見たら、そんなことがわかるのか? 

凡人には計り知れないこの凄い技。

とにかく、尋常の神のなせる技でないことは確かである(もちろん、神はみな尋常ではないのではと言われたら、そうなのだが……)。

そういう意味で、ヘルメスは、敵に回すと最もやっかいな人物を敵に回したのだった。

ところが、ヘルメスには、そんな心配は不要らしい。彼はどうもこの悪事を明るみに出してほしくて、わざとやったようなのだ。つまり、

「自分の悪事の首謀者だと、一早く確実に察知してくれるのは、……そうだ、アポロンだ!

というわけで、アポロンの牛を狙った、と思えるのである。

悪事が終わって夜も更けて、ヘルメスが家に帰ると、母神のマイアは彼を問いつめた。
 

「お前は、なんてことをしたのかしら。きっと、アポロンによって、おまえは連れ去られていくだろう。もしそうじゃなかったら、いつまでも盗人のままよ。」

予知能力のあるアポロンでなくとも、ヘルメスの悪事はすっかりバレバレなのである。

ところが、ヘルメスは、平然とこう答える。

 「これは最善の策だったのですよ。」

つまりは、こうだというである。

ヘルメスの父親は神々の王ゼウスであり、神々の頂点に君臨する神である。

だが、母親のマイアは、華々しい夫と異なり、神々のつきあいを避け、親子でひっそりと洞窟に住んでいたのであった。

ゼウスにはたくさんの妻がいて、とくに正妻である女神ヘラはあまりにも嫉妬深かった。

ヘラは、ゼウスに新しい愛人ができたと聞けば、その女性を牛に変え、虻(あぶ)を放って責め苦を負わせるという、徹底したヤキモチ焼きの女神であったのだ。

そんなこんなで、少し遠慮がちになっていたのだろうか。マイアは、暗い洞窟に住み、大勢の神々の中でたったひとり、捧げ物も祈りも寄せられないという、非常に寂しい生活を送っていたのであった。

そして、それはマイアただ一人の問題でない。その息子ヘルメスも、このままいけば、ずっとマイアと同じ、若隠居のような生活を余儀なくされるということでもあった。

ヘルメスは、なんとかしてこの状況を打開したかったのである。つまりは、神々の仲間に入れてもらうきっかけを窺っていたのだ。

そして、生まれたその日に、もう彼は行動を起こした。もしその夢が叶わぬ時は、いさぎよく盗賊の頭になる、とまで言って。

泣かせる。泣かせるじゃないか。単なる乱暴者のはずが、けっこう、いいやつに思えてくるから不思議である。

2005/09/17

へるめす通信5

アポロンは、ポイボスともポイボス・アポロンとも呼ばれ、ギリシア神話の神々のうちで一番の好人物とささやかれる美青年神である。

好人物なんてものじゃない。彼には品行方正すぎるというイメージさえある。

そのイメージの典型は、ニーチェの『悲劇の誕生』の中にうかがえる。

ニーチェはリヒャルト・ワーグナーに捧げたその書物において、酒と陶酔の神ディオニュソスとアポロンを対比させているからだ。

そして、この二神の対立が象徴するのは、本質と現象といった原理の対立なのである。

ニーチェによれば、アポロンは、本質を覆い隠す仮象世界の代表である。

人間は、欲望や陶酔(オルギー)、快楽や衝動、生存の恐怖というような、恐ろしい反面本質的なもの—これをニーチェは「ディオニュソス的なもの」と呼んだ—を、日常生活で覆い隠さなくては生きていけないのである。

だから、日常生活というのは、理性の世界、品行方正な世界、本質を隠す仮の世界であり、つまりは「アポロン的なもの」ということになる。

このニーチェの対比を用いるなら、いたずら者のヘルメスは、ディオニュソス的な性格を持っているといえるかもしれない。

さらに、アポロンは、託宣に関する力でも他を圧倒していた。

少しでも困ったこと、対策を知りたいことがあれば、みんな、すぐにデルポイにあるアポロンの神殿に託宣を聞きに行ったのである。

たとえば、精神分析学者フロイトのエディプス・コンプレックスで名高いオイディプス王も、その一人であった。

彼が荒れ果てたテバイの国を救うのに、どうしたらよいかを尋ねた先は、アポロン神だったのである。

 

ところで、ヘルメスとアポロンのどちらが好みですか、と聞かれれば、私なら問答無用で

アポロン!

と答えてしまうに違いない。

真面目すぎるのもよくないけれど、暴れん坊はどうしようもない。

しかも根っからときていれば、「どこかで誰かに根性をたたき直してもらったら?」と嫌みの一つでも言いたくなってしまう。

けれど、乱暴者とひとくくりにできないところがヘルメスにはある。彼の本領は怒ったアポロンと面会した場面以降に発揮されるのだ。

ヘルメスは、徹底的に怒らせたアポロンから、ケーリューケイオン、ラテン語でカードゥーケウスという、美しい黄金の杖を、ちゃっかりもらっている。

しかも、アポロンに、「今後、おまえほど自分に近い存在を作らない。」と高らかに宣言させてしまってもいる。

アポロンは、いたずらされたのに、すっかりヘルメスのとりこなのである。

そうすると、ヘルメスって、もしや人とのつきあい方に悩む現代人にヒントを与えてくれる存在なんじゃないかと思えてくる。

なんたって、敵だった者を最強の味方にしてしまうのだから。ヘルメスの真似をしたら、もう少し、円滑な人間関係が営めるかもしれない、とも思うのだ。

けれども、みんな、本当は知っている。神話はそういう直接的な意味で、現代人の生きるヒントにはならないということを。

だって、ヘルメスは神様なのだ。私たち人間にはできない芸当をする。だから、彼の真似をしろ、参考にしろと言ったって、そもそも私たちにできはしないのである。

 
けれどもよく考えてみると、ヘルメスは、黄金の杖も、心をとろかす竪琴も、初めから持っていた訳ではない。

それは、人生(神生?)の中で見つけ出し、智恵を尽くし、工夫を凝らして、やっと手中に収めているのだ。

ヘルメスは残酷な乱暴者であり、決して私の好みではないが、努力だけはした神なのである。

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