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2005年11月の7件の記事

2005/11/28

陸軍(1944)

昭和19年11月に完成した木下惠介監督作品。

「国策映画」の要素が全くないとは言えないけれども、当時のたいへんな制約の中で、一辺倒の主張に陥っていない点に感銘を受けました。

笠智衆演ずる高木と、初代水戸黄門でおなじみの東野英治郎演ずる桜木が、元寇の時に吹いた「神風(カミカゼ)」と日本の勝利との関係について語り合うシーンには、少々ドキリとします。

桜木は、カミカゼが吹かなければ日本はどうなっていたかと述べます。つまり彼は、日本が勝利したのはある意味、偶然の産物だと捉えているのです。一方で、高木はいきりたち、カミカゼが吹かなくとも日本は勝っていた、と言い張ります。


こんなふうに、この映画は、対極にある主張を戦わせ、見ているこちらをハラハラさせながら、時代の状況を浮かび上がらせようとしているのです。

さて、この映画で特に印象的な場面は、やはりラストではないかと思います。

田中絹代演ずる高木の妻は、当初、息子の出征の見送りに行こうとはしません。

ずっと天子さまから預かっていた息子だけれども、今ようやく、天子さまにお返しできる段になった。私の任は終わった。そして、たぶん見送りに行ったら、泣いてしまう。

そういう、もろもろの理由で、母は息子の出征を見送らず、家にとどまることを決意します。

けれども、時が経つにつれて、彼女はいてもたってもいられず、息子に一目会おうと追いかけます。ここからの最後までのシーンは、誰もが、なにかしら感動するに違いないと思う名場面の一つです。

ところで、同じ年に作られたアメリカ映画と比較すると、『陸軍』に描かれている日本の状況がより一層切なく感じられます。

例えば、アメリカでは当時、すでにカラー映画が制作されていました。

ジュディ・ガーランド主演の『若草の頃(Meet Me in St. Louis)』は、1944年に制作されたテクニカラーの作品ですが、そこに映し出されているのは、アメリカの圧倒的な国力と人々の明るさなのです。

2005/11/27

へるめす通信16

 —(ジョルジュの孫)これについては、精神分析学者のフロイトのコメントを見るといいかも。とりあえず、あなたの言っている倒錯した愛情のことを、福沢が徹底して疑ったフェティシズムと区別して、「フェチ」って呼んでおくわね。
 面白いことに、フェチってのは、男性特有の症状であるらしいの。

 —(村人A)へ? フェチの女性って、いないんですか?

 —(ジョルジュの孫)いないとは言わないけど、男性に比べると少ないのかもしれない。だって、女の人が女の脚やブラジャーに興味を持つって、あんまり聞いたことないじゃない?

 —(村人A)でも、女性も男性の何かに興味を持つかも?

 —(ジョルジュの孫)確かに、女性の中には、男性の鍛えあげられた胸板にキャーっとなって、ホスト・ショー通いをしている人もいるかもしれないよ。
 でもね、女性の場合、胸板が厚けりゃ誰でもいいというよりは、その胸板を持つ男性を個人的に好きになっちゃうということを考えなくちゃいけないかも。つまり、胸板というモノじゃなくて、人を好きになるってこと。
 だいたい、フェチに関するブログの量をとっても、圧倒的に男性が書いていると推測されるものの方が多いもの。

 —(村人A)でも、女性でも何かを好きになることはあるでしょう?

 —(ジョルジュの孫)そりゃあね。だけど、甘いものが好きで好きでしようがないという場合、「甘いものフェチ」とか「スイーツ・フェチ」って、あんまり言わないじゃない? やっぱり、「フェチ」って言ったら、普通は、興味を持たないもの、持ってはいけないものに異常な執着を示すことを想定するでしょ。

 —(村人A)あー、まあ確かに。フェチっていう言葉から何を想像するかって言われたら、男が女の持ち物とか体の一部に興味を持つことだって、普通は考えますね。

 —(ジョルジュの孫)そうでしょ。そうすると、そこから何か見えてこない?

 —(村人A)……、うーん。そうだなぁ。。。つまり、フェチってのは、女性の何かに異常に興味を持つことによって、男が自分の心のすき間を埋めているってことかな? もちろん、全ての男じゃないけど。

 —(ジョルジュの孫)おっ?! いいところを突いてるじゃない!

2005/11/22

へるめす通信15

 —(ジョルジュの孫)まあ、見方によっちゃ、悪ガキだよねぇ。
 だけど、福沢は、そういう当時の人たちが信じていた神罰みたいなものは、実は嘘っぱちなんだということを、子供ながらに感じていたわけ。そして感じていただけじゃなくて、実際にそれを自ら証明したってわけ。
 それって、単なる悪ガキじゃ、できないことでしょ?

 —(村人A)まあ、それはそうですね。

 —(ジョルジュの孫)それにね、福沢が生まれたのは、江戸時代よ、江戸時代。みんな、ちょんまげ結って、着物を着てた時代よ。今だって、トイレでお札を踏むなんて、できる人、そんなにいないと思うのに、ちょんまげ結ってた時代にこんなことするって、普通の人じゃないってことよ。
 もっとすごいのは、神様のバチなんて、そもそもないってことの証明が、これだけじゃないってこと。そのお札踏み事件から、1、2年経った後にも、性懲りもなく似たようなことをやってるのね。

 —(村人A)はあー、今度は何をしたんですか? 福沢少年は。

 —(ジョルジュの孫)今度はね、自分が養子になっていた叔父さんの家のお稲荷様の社(やしろ)に何が入ってるのかなーと思って、そおっと開けて見たらしいのね。そしたら、中に石が入ってたんだって。つまり、みんな、石を拝んでいたわけよ。

 —(村人A)なるほど、フェティシズムってやつですね。

 —(ジョルジュの孫)そうそう。それでね、福沢はなんと、そのご神体の石を捨てちゃって、代わりの石を拾って入れたんだって。

 —(村人A)ひょえー!

 —(ジョルジュの孫)それからね、隣の屋敷のお稲荷様を開けて見たら、今度はそこに木の札が入ってたらしい。それも捨てちゃったんだって。

 —(村人A)やっちゃったぁ。。。

 —(ジョルジュの孫) 冗談じゃないんだから。これ、ちゃーんと『福翁自伝』に書いてあるんだから。
 それで、平気な顔して、すましていたら、まもなく初午(はつうま)になったってんで、幟(のぼり)を立てたり、太鼓を叩いたり、御神酒(おみき)をあげたりして、みんな、お祭りしているわけ。実際にはご神体そのものじゃないのにね。だけど、それを知らないで、みんな一所懸命にお祭りしている。
 だから、福沢は笑いたくなっちゃったらしい。
「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白い」、
って思ったみたいよ。

 —(村人A)ぷぷっ、やっぱ、悪いヤツですよ、福沢は。一万円札に刷られているのは、間違いじゃないかって気がしてきましたよ。
 ……あれ? どっかにいましたね、似たようなヤツが。
 そうそう、ヘルメスみたい!

 —(ジョルジュの孫)あ、似てるかもね!! 確かに福沢は、ある意味で明治日本のトリックスターかもしれないなぁ。
 でもね、やっぱ、お札に刷られているのは、間違いじゃないんだよねー。いろいろすごいのよ、諭吉先生は。

 —(村人A)偶然の一致ですかね。「おふだ」と「おさつ」って同じ字ですね。お札(ふだ)を踏んでお札(さつ)になった。諭吉、呪われたか?!

 —(ジョルジュの孫)その、どこからどう見ても救いようのない駄洒落を言うヤツは、だじゃれ? なんちゃって。

 —(村人A)……。却下!

 —(ジョルジュの孫)ごほっ。えーっとまあ、それはさておいて、こんなふうに、福沢は根本的に疑っていたようだけど、木とか石のような単なるモノに特別な価値を見出して信仰するということ、つまりフェティシズムは、古今東西を問わず、いろいろなところにあるわけ。

 —(村人A)じゃあ、フェティシズムって、あの有名な、ハイヒール・フェチとか、ブラジャー・フェチとは、全くの別物…?

 —(ジョルジュの孫)いや、いや、それがそう簡単にいかないのが、フェティシズムなわけ。ある人は石とか木を信仰の対象にしているけれど、別の人はそれがハイヒールとか、ブラジャーとか、女性のふくらはぎになっているということよ。

 —(村人A)じゃ、そっちのフェチって何なんですか?

2005/11/21

へるめす通信14

 —(ジョルジュの孫)だから、大学受験が済んじゃって、お守りがいらなくなっても、こんなのは木の切れ端だからってんで、ゴミ箱にポイって捨てられる人、そうそういないと思うわ。
 お守りなんて意味ないって思っている人は、そもそも神社に行ってお守りをもらってこようと思わないでしょ? だから、お守りを持っているってこと自体、一種のフェティシズムのあらわれってことになるわけ。
 つまり、それって、お守りを単なる木として見てはいないってことでしょ?

 —(村人A)まあ、確かにね。さすがに、あっしも、お守りをゴミ箱には捨てられませんよ。だけど、日本人はみんな、そうなんじゃないんですか?

 —(ジョルジュの孫)ところがね、あの一万円札に刷られている福沢諭吉。彼がすごいのね。なんたって、十二、三歳ぐらいの時に、お札(ふだ)を足で踏んじゃってるんだから。しかも、偶然踏んだんじゃないのよ、ワザとよ、ワザと。

 —(村人A)えー?! なんてことを……。 「このォ、バチ当たり!」って、おっ母さんに叱られないんですかね?

 —(ジョルジュの孫)いや、どうも、こっそりやったみたいよ。
 あのね、なんで福沢がそんなことをしたかっていうと、まず福沢のお兄さんって人が、お殿様の名前を書道で練習していたわけ。そしたら、何枚か書き損じが出たらしいんだけど、畳に散らばったその書き損じを、通りがかりの福沢がドタドタと踏んじゃったらしいのね。
 そうしたら、お兄さんが「コリャ待てィ!!」って怒鳴ったっていうわけ。
 「お前は眼が見えぬのか! これを見ろ、なんと書いてある!  殿の名前だ! おのれ、殿の名前を踏みおって!!」
 って、もうたいへんな剣幕だったんだって。
 そこで、福沢、お兄さんの前では、「私が誠に悪うございました」って謝ったんだって。だけど、心の中では、「殿様の頭を踏んだんじゃあるまいし、名前を書いた紙を踏んだだけなら、構いやしなかろう」と思ったっていうのね。

 —(村人A)ははっ、まあ、そりゃそうだ。

 —(ジョルジュの孫)ところが、すごいのはここから。福沢の一種、実験精神みたいなものが発揮されるのね。
 彼は叱られたのが不満だったんで、それならいっそ神様の名前を刻んだお札なんかを踏んだら、一体どんなことになるだろうかって思ったわけ。それで、まずは人気のない場所でお札を踏んだっていうのよ。

 —(村人A)へえー。すごいな、そりゃ。

 —(ジョルジュの孫)そうなの。そんな人、今でもそんなにいないよね。だけど、話はそこで終わらないの。
 踏んでみても何ともなかったので、福沢は、
「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗水場(ちょうずば)に持って行って遣ろう」
と思い、便所に行って、実際にお札を踏んだらしいのね。

 —(村人A)えー! そこまでやるか!!

 —(ジョルジュの孫)さすがにその時は、彼も少し怖かったみたい。後々何が起こるんだろうって。
 だけど、数日経っても、何ともないわけ。それで、福沢、
 「ソリャ見たことか、兄(にい)さんが余計な、あんなことを言わんでも宜(よ)いのじゃ」
と、ひそかに考えたらしい。
 だけど、そんなことをみんなに言ったが最後、母さんにも姉さんにもきっと怒られるだろう。ええい、黙っておけってんで、黙っていたということらしいのね。
 やっぱ、えらい人は、やることが違うわぁ。

 —(村人A)……えらいんじゃなくて、単なる悪ガキ、クソガキって気もしますがね。

2005/11/20

へるめす通信13

 —(ジョルジュの孫)あっ、そうね。そういうことになるかもね。
 金田一君は、「じっちゃん」なんて気軽に呼んでるけど、その実、「じっちゃん」をものすごーく尊敬しているというか、より正確に言えば、畏怖の念を抱いているってことになるのね。
 「事件の謎が解けなかったら、じっちゃんよ、オレを罰してくれてかまわない。」ってことだもんね。

 —(村人A)うわー、すげぇ「じっちゃん」だなあ。そんな「じっちゃん」を持って、ある意味、気の毒? 

 —(ジョルジュの孫)そうね。確かに。
 だけど、こうも言えるかも。「じっちゃん」というモノを崇拝しているという点では、ここに金田一君のフェティシズム(呪物信仰)がうかがえるってこと。

 —(村人A)? ……フェティシズムって、あの。……あれ、のことですか? つまり、そのォ、女性の脚フェチ、とか、ストッキング・フェチとか、パンティ・フェチとかってやつ? 

 —(ジョルジュの孫)まあ、そういわれれば、そうなんだけど。

 —(村人A)えー? そうすると、金田一君は、実はじっちゃんフェチ? うほほーい! すごい趣味……。やるなあ、金田一君! ナーイスっ!!

 —(ジョルジュの孫)……あのね、あなた、たぶんものすごーく誤解してると思うんだけど。
 フェティシズムってのは、そういう倒錯した愛情表現しかできない、あなたみたいな人のことだけを言うんじゃないのね。

 —(村人A)へ? だって、フェチって……?

 —(ジョルジュの孫)あのね、フェティシズムってのは、もともと石とか木のようなモノが、見る人から見れば、神秘的な力を持っていると考える信仰のことをいうわけ。
 フェティシズムをいろいろな宗教の根源だと考える人もいるくらいなんだから。

 —(村人A)石や木を信仰するって、木が神様なんですか?

 —(ジョルジュの孫)まあ、そういうことになるかな。
 だけど、それって別にいわゆる「未開」の人々のやることだとも、いえないわけ。現代の私たちの中にもフェティシズムってのはあるの。
 例えば、こんな時代になったって、大学受験生の中には、大学合格を祈願して、神社に行ってお守りをもらってくる人もいるでしょ。そのお守りを大切にして、試験の日にポケットに入れてったりするじゃない?
 だけど、お守りの袋の中にどんなすごいものが入ってるのかなーとワクワク☆ドキドキしながら見てみると、文字の書かれた木だけが入っているわけ。それって、木に神様が宿っている、つまり依代(よりしろ)だと信じていることになるのね。
 つまり、見る人から見れば単なる木、単なるモノなんだけど、当人にとっては、それがすごく大切な意味を持つわけ。

 —(村人A)……なるほど。

2005/11/14

へるめす通信12

 —(ジョルジュの孫)つまり、誓いを立てる時には、もし私が嘘をついていたなら、神の慈悲をあきらめてもいい。あるいは、神から何らかの罰が下されてもいい。
 そういう覚悟がなくっちゃいけないってことになるわけ。

 —(村人A)だけど、ホッブズはキリスト教徒でしょ? そうすると、彼の言うところの「神」って、いわゆる「オー、マイ、ガッ!!」でお馴染みの「God」のことなんじゃないんですか?
 それから、キリスト者じゃない人は、どうなるんですか。 

 —(ジョルジュの孫)それについても、さすがホッブズ、ちゃんと考えているの。
 つまり、異教的な形式で宣誓する人の場合、例えば、「私は嘘をついていない。そうでなければ、ユピテルに私を殺させよ。」っていうようなものもあるというわけ。
 ちなみに、ユピテルってのは、ローマ神話の主神で、ギリシア神話でいえばゼウスに相当する神さまよ。

 —(村人A)ふーん。なるほどね。

 —(ジョルジュの孫)だから、各人各様、信じているものが違うわけだから、各人が信じているものを生かす形で宣誓をしなければならないというわけ。
 ちなみに、ホッブズは次のように言ってるのね。
 第一に、誓う人がいつもやっているやり方以外の形式や儀礼で行われた宣誓には意味がない。
 第二に、誓う人が神と考えないものによる宣誓は意味がない。

 —(村人A)すごい。ホッブズって徹底して物事を考えた人なんだ。
 
 —(ジョルジュの孫)うん。うん。
 ちなみに、これについては、グロティウスっていう16世紀後半から17世紀にかけて活躍した「国際法の父」とか「自然法の父」って呼ばれる人も、『戦争と平和の法』っていう本の中で、同じようなことを述べてるのね。
 一節をちょっと読んでみるとね、
 「宣誓は、神が呼ばれること、例えば『神よ我が証人たれ』或(あるい)は『神よ我が裁判官たれ』という意味を有すべきである(中略)。そしてすべての事を知り給(たま)う神は証人であるが故に復讐者でもある」、だって。

 —(村人A)…………。

 —(ジョルジュの孫)? こらぁ。ちょっと、あんた、寝てんじゃないの?! 

 —(村人A)……、はっ! 今度はあっしが気を失っちゃいましたよ。……難しいですよ。

 —(ジョルジュの孫)こんなんで、へこたれるな! って言っても、まあ、確かに難しいかもね。
 それにね。この本は難しいだけでなく、分厚いったらないの。いやー、今回初めて知ったんだけど、一又正雄さんの翻訳だと1冊につき5センチの厚さで、しかも3巻もあるんだから。

 —(村人A)へえー。そうですか。グロティウスさんもご苦労なことでしたね。
 ところで、そうすると、何ですか、漫画の金田一君は、じっちゃん、つまり、名探偵・金田一耕助を、「神」と仰いでいるということになるわけですね。
 「じっちゃん」は彼にとって神なんだ。

2005/11/13

へるめす通信11

 —(村人A)あれっ? ちょっと、あーた、ほれ。

 —(ジョルジュの孫)うーん。……、はっ!

 —(村人A)あーた、何ですか、いきなり。目が遠くを見てましたよ。しかも長かったですね〜。

 —(ジョルジュの孫)ありゃー、もしかして、私、意識喪失してた? 

 —(村人A)もしかして、じゃなくて、きっぱり喪失してました。
 
 —(ジョルジュの孫)あらー、長いこと気を失っちゃって。あなたの顔が悪いんだわ、きっと。

 —(村人A)何ですか! 寝たふりはいいから、さっさとブログ、更新してくださいよ。

 —(ジョルジュの孫)あっ、そうそう、ブログね、ブログっと。……話、どこまで行ったっけ?
 あっ、そうそう、思い出した!
 でね、恐怖から誓いを立てる場合、その誓いには対象があるっていうことを、ホッブズが言っているの。
 つまり、人は見えない霊の力に対して誓いを立てるか、もしくは、誓いを破ることによって、オレさまを裏切りやがってコノヤロー!なんて、怒るであろう人々に対して誓いを立てるか、どっちかだというわけ。

 —(村人A)ん? あのー、見えない霊の力って、何ですか? ちょっと、それ、意味がわからないんですけど。
 あっ、もしかして、各人がせおっている背後霊に誓いを立てるとか?
 だけど、あっしにゃ、そんなものいませんよ。あーたになら、一匹や二匹、いそうですけどね。しかも、とてつもなく、怖そうなやつ。

 —(ジョルジュの孫)ちょっと、あなた、な〜に、ばかばかしいこと言ってんの。あのね、見えない霊の力ってのは、要するに、個々人が持っている宗教のことよ。
 ひらたく言えば、あなたの信じている神様に対して誓うってこと。
 ホッブズは、見えない霊の力と人間の力じゃ、宣誓者の恐怖としては人間の力の方が大きいだろうけれど、本当は、見えない霊の力の方が大きいんだって言うわけ。
 これのどこが背後霊じゃい。
 
 —(村人A)ふーん、そうだとすると、人間が何かに対して誓うというのは、当人が最も畏れ敬っている神への恐怖が根源にあるというのが、ホッブズの見解だっていうわけですね。

 —(ジョルジュの孫)それそれ、そういうこと。私が言いたいのは、そういうこと。
 あんた、なかなかじゃない。見直したぁ。人は見かけによらないって言うけど、ホントね。昔の人はよく言ったもんだわ。

 —(村人A)なんで、そこで、あっしの外見が出てくるんですか。ほめるんなら、ストレートに「あなたの才能にクラクラした」とでも言えばいいじゃないですか。屈折してるなあ。

 —(ジョルジュの孫)いやいや、私をクラクラさせるなら、あとひとふんばり、ふたふんばりしないと。せめて、アポロン様レベルになってくださいな。それぐらいじゃ、ちょっとね。おーっほっほ。

 —(村人A)何ですか、それ、ホントに失礼な。
 ところで、そうすると、誓いを立てる人は、何らかの神様を信じている人でなければならないってことになりますか。

 —(ジョルジュの孫)あなた、ノってきたわね。

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