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2006/08/04

寺山修司は「神話」の宝庫である(1)

ある仕事の関係もあって、ここのところ、断続的にではありますが、寺山修司脚本・監督の映画を見ています。

その結果、私が彼に抱いた結論。
ズバリ、「寺山修司はまごうことなく天才だ。レベルが違う。なおかつ神話学的な分析の宝庫である」というもの。

もっと早くに見ておけばよかったなぁと思う反面、20代の私ではわからなかったかも、という気もします。

実は、私、2005年まで、寺山作品を読んだことも見たこともありませんでした。
もちろん、名前は知っていたので、
レンタルビデオ店で寺山作品を取り出してみたこともあったのです。

すると、ビデオのカバーになんともオドロオドロしい情景が……。
だって、役者が揃いも揃って、みーんな真っ白い、のっぺらぼうなメイクをしていて、どうも恐山と関係しているらしいんですもの。

一瞬、私の地元にある水子供養のお地蔵様にかかっている赤いよだれかけが、ひらひらと頭をよぎっていきました……。

ですから、これは間違いなく、ホラーとはいわないまでも、このテの作品なのねと片付けてしまっていたのです。
ちなみに、この作品は『田園に死す』なんですけど。

そんな私に、寺山修司を紹介してくださったのは、知の巨人、かの山口昌男先生でした。

2005年6月にシアターXで行われた「遊行かぶき 「中世悪党傳」誰がために鐘は鳴る」(白石征氏・演出)。
これは『太平記』を題材にとったもので、 この演劇を山口先生と見に行ったのです。
ストーリーは、楠木正成の霊に足利尊氏を誅殺させるという形で、足利家の崩壊を描くというものでした。

が、その筋立て以上に、その時、私が惹かれたのは、
寺山修司のあやつる「ことば」。

帰りのタクシーの中で、先生に「どうだった?」と聞かれたので、
すかさず私はこう答えました。

「ことばが見事だと思いました。最初の場面では平易なことばで観客を入り込ませ、殿上の場面ではピシリとした科白を語らせる。ことばの難易の使い分けができるんですね。」

すると、先生は深く深く頷かれ、「確かにそうだね」と賛同してくださり、
その後、ひとしきり寺山談義で盛り上がったのでした。
その時、いつか寺山の他の作品を見なくちゃと思い、また山口先生にもそう宣言していたのですが、最近になって、ようやくそれが叶ったというわけです。

では、寺山はどういう点で、神話学的な分析対象となるのかということですが、次回以降、これについて、ちょっと述べてみたいと思っています。

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