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2006/10/15

寺山修司は「神話」の宝庫である(3)

10月9日(月)、それは、都留文科大学のゼミ合宿から帰ってきた日の夕方だったのですが、私、元気に、寺山修司の『狂人教育』の舞台を見に、東京都江東区の森下にあるベニサン・ピットに行ってきました。

(最近、ベニサン・ピットに行くことが多く、すっかり近辺の地理に詳しくなりました。)

今回の舞台は3パターンあったのですが、たまたま私が見たのは、1962年の寺山修司の原作通りのバージョン。

ストーリーは、ある「操り人形」の一家の物語。その一家の中に、誰か一人だけ狂人がいると指摘されたため、その一人を捜し出し、抹殺するというものです。

これを見て考えたことは3つ。

第1に、この寺山の作品は、ノーベル賞作家であるルイジ・ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』を彷彿とさせるという点です。

普通に考えれば、ある作品に出てくる作中の「登場人物たち」というのはフィクションで、その戯曲を描いた「作者」は「登場人物たち」を生み出し、動かす存在であるわけです。

ピランデッロの作品で言えば、「登場人物たち」は「作者」よりも下位の存在であるし、寺山の作品で言えば、「人形たち」は、彼らを操る「人形師たち」や、そもそもこの戯曲を生み出した「作者」よりも下位の存在であるわけです。

逆に言えば、「作者」や「人形師たち」というのは、「登場人物たち」や「人形たち」を動かす存在なので、いわゆるメタ・レヴェルに立っているはずなのです。

ところが、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』も、寺山の『狂人教育』も、どちらも下位に位置する「登場人物たち/人形たち」が、自分たちよりもメタ・レヴェルに立っているはずの「演出家・俳優たち/人形師たち」の中に入り混じり、その階層性を乱すという構成を取っています。

寺山修司とピランデッロの違いは、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』には「作者」が登場しないのですが、寺山の作品では、作者である「寺山修司」にまでコメントが及んでいることです。寺山修司が戯曲の中で「登場人物である人形たち」に「作者・寺山修司」に対する言及をさせているんですね。(ややこしいですが……。)

そして、「作者」でさえも、「登場人物たち」のいずれが狂人なのかを判定できないという構造になっている。つまり、「作者」は超越的存在ではありえないことが、ほのめかされているのです。

この点において、ピランデッロの作品よりも凝った作りになっているなあと思った次第です。

2点めは、人々がどういう人物を「狂人」と考えるのか、ということ。

寺山の結論は、共同体の成員から外れた行動をとり、無邪気で、政治的機敏に疎く、比較的弱者の地位にある者。つまり『狂人教育』において、寺山は、共同体における弱者が犠牲になると解釈していると思われます。

このあたりの戯曲の持って行き方は、かなり思弁的な感じがしました。

確かに、寺山が描くように、一般的には弱者が排除されると考えがちです。けれども、よく考えてみると、弱者ほど強者のマネをするはずなのです。排除されたくないがゆえに。

この箇所に、この段階での寺山修司の思考の弱点があらわれていると思うのです。それは、おそらくニーチェの提出した問題と関係しています。

ニーチェは「アンチクリスト」の中で、次のように述べています。

善とは権力を求める意思であり、悪とは「弱さに由来するいっさいのもの」である。また悪徳よりも有害なのは、「すべての出来損い的人間と弱者に対する同情的行為」である、と。

そして、こう断言しているのです。

弱者と出来損いは亡びるべし   
   (以上、ニーチェ『偶像の黄昏 アンチクリスト』白水社)

かなり過激な言辞ですね。

ちなみに、ここでニーチェが言っている、「すべての出来損い的人間と弱者に対する同情的行為」とは、キリスト教のことです。この言説の妥当性については検討の余地があると思います。しかし、この批判はそのまま寺山修司の作品の弱さをも、えぐり出していると私は考えています。

この弱さの問題は、戦後日本の思想を考える上でも重要なので、改めてどこかの紙上で論じようと思っています。が、とりあえず今述べておきたいのは、ニーチェが、善悪の彼岸、すなわち何が良くて何が悪いのかという枠組の発生を考察したのと同様に、寺山は、この後、狂気を生み出す共同体の秩序構造へと目を向けていくということなのです。

それが私が興味を持った第3の問題で、寺山修司の戯曲は深化しているということになります。

寺山が監督・脚本をつとめた映画『田園に死す』(1975)などを見ると、過去と現在の記憶の問題、共同体社会の内部と外部、農村型社会と都市型社会という対立項を立てることによって、戯曲が構成されています。

これらは『狂人教育』には登場していない枠組で、端的に言うならば、<秩序形成の動態構造の戯曲化>と言えるでしょう。ここには、紛れもなく、寺山修司が読んでいたと思われる文化人類学者・山口昌男氏の影響がうかがえます。

ところで、舞台の方ですが、とくに人間のように動いていた人形が、いかにも人形といった風情にもどるところなど、見事でした。

機会があれば、別の寺山の戯曲の舞台も見てみたいと思いました。演出家である流山児祥さんのブログを発見しましたので、興味のある方はこちらから、どうぞ。

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