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2006/10/25

『ゴドーを待ちながら』と「あめふりくまのこ」

いつだったか、漫然と聞いていたラジオから流れてきた童謡の「あめふりくまのこ(鶴見政夫作詞・湯山昭作曲)

それが流れたとたん、激しく感動して思わず涙ぐんでしまったことを、今日、CDの片付けをしながら唐突に思い出しました。

そこで、「もう一度聴いても感動するかな?」と、なかば挑戦するような気持ちで聞き直してみたのです。

すると、やっぱり期待に違わず、なぜかしみじみ……。

何度聴いても良い歌だな、とつくづく感じ入ってしまいました。

湯山昭氏の曲ももちろん素晴らしいのですが、鶴見政夫氏の歌詞も良い!

そこで、有名ではありますが、歌詞を少し抜粋してみましょう。

おやまに あめが ふりました
あとから あとから ふってきて 
ちょろちょろ おがわが できました

いたずら くまのこ かけてきて
そうっと のぞいて みてました
さかなが いるかと みてました

ところが、雨でできた小川ですから何もいません。ですが「くまのこ」は、手で水をすくって飲んだり、小川をのぞき込んだりしながら、魚をずーっと待つのです。

しかし、いつまでたっても、雨は止みそうにありませんでした。そこで「くまのこ」は、

かさでも かぶって いましょうと
あたまに はっぱを のせました(以上、鶴見政夫氏の作詞からの抜粋)

「くまのこ」はこの後さかなに出会ったのでしょうか。あるいは、お母さんの待つおうちに帰ったのでしょうか。

それらは、歌詞の中で一切何も触れられていないのです。

降り続く雨の中でさかなを待っている「くまのこ」。本当にいじらしく、頭をなでてやりたくなります。

けれども、この歌を聴いて感動するのはたぶん、「くまのこ」のいじらしさ以上に、いくら待っても「くまのこ」が待ち望む「さかな」はやって来ない。そのことを、私たちが知っているからじゃないかと思うのです。

待つ甲斐のないものを、ただひたすら信じて待つ。「くまのこ」は、ある意味で、私たち現代人の姿であると言えるかもしれません。

実は、この「あめふりくまのこ」と類似したテーマが、サミュエル・ベケットの二幕の戯曲『ゴドーを待ちながら』に描かれています(以下、ベケット『ゴドーを待ちながら』安堂・高橋訳、白水社より抜粋)

表題の「ゴドー」とはゴッド、つまり「神」のこと。

ヴラジミールとエストラゴンという二人の主人公が、来るあてのない「ゴドー」(つまり神)を待ちながら日々を送るという内容なのですが、この戯曲の最後のところには、次のように書いてあります。

(ヴラジミール) それより、あした首をつろう。(間)
         ゴドーが来れば別だが。

(エストラゴン) もし来たら?

(ヴラジミール) わたしたちは救われる。

 

しかし、いくら待ってもゴドーは来ません。そして突然、二人は首吊りの話を忘れたかのように、ここで別れると言い出すのです。

(ヴラジミール) じゃあ、行くか?

(エストラゴン) ああ、行こう。

 

これで戯曲は終わりです。が、ト書きには「二人は、動かない」と記されています。ようするに、二人は、今までと同じく、来るか来ないか判然としないゴドーを待ち続けるということなのです。(ちなみに、一幕目の終わりも同じ構成となっています。)

つまり、「神が死んだ」と言われる今日のキリスト教の伝統の中で、現代人がどのような状況に置かれているか。それを、ベケットは、ヴラジミールとエストラゴンという二人の姿で描いているのです。

ある日、生まれた。ある日、死ぬだろう。同じある日、同じある時、それではいかんのかね? 女たちは墓石にまたがってお産をする、ちょっとばかり日が輝く、そしてまた夜。それだけだ。

神が存在しないなら、生きる価値も死ぬ価値もなくなる。人生の意味もなくなり、人は死ぬためだけに生まれてくる。つまり、人の生は死と同価ということになる。時間の経過にも何の意味もない。

だからこそ、人は、ただ生きるだけの虚無の状態から救ってくれるゴドーの到着を熱望しているわけです。

ところで、ゴドーを待ちつづけているのは、キリスト教文化圏の人々です。しかし、そうでない日本の童謡に、類似したテーマがあった。このことに驚くばかりです。

では、「あめふりくまのこ」が待っている「さかな」とは、いったい何なのでしょうか。

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