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2006年11月の5件の記事

2006/11/19

これは見るべし!

昨日、久々にすごい舞台を見た。これまで200本以上の舞台を見てきて、間違いなくトップテンに入るだろうと思われるものだった。

Photo_40それは、「劇団☆A・P・B-Tokyo」による寺山修司の映画『田園に死す』の舞台化である。(左は公演パンフレット)

原作が戦後の戯曲の傑作のひとつであるのは間違いないが、その戯曲を生かし切った演出もすばらしかった。

とくに、照明の使い方、灯りの用い方。

非常に効果的で、ひどく感心したのだった。

ところで、改めて『田園に死す』を見直すと、寺山修司という作家は、自分の来歴を徹底して内省した人だと痛感する。

それは精神分析学の用語や観念に通じているということではなく、自力で自分の精神の軌跡をたどったということである。

このことは実際に精神分析をした人でなければ理解できないことだろうが、記憶というのは、平気で人を裏切り、できるだけ良く見せようと取り繕ってくるものなのである。

思い出したくない出来事を思い出そうとすると、記憶というのは、最初、自分にとって都合の良い、当たり障りのない形になって出てくる。

けれども、丹念に自己の心を遡っていくと、次第に、本当の記憶、自分にとって嫌な記憶が思い出されてくる。

しかも、あまりにも辛すぎる記憶を思い出すという作業は苦痛を伴う。言い換えれば、ありのままの記憶というのは、想像もできないほど手強い相手なのだ。

そのため、それを掴み出すには、想起を丹念に繰り返していく粘り強さと、一種の素直さとを必要とするのである。

このあたりを、寺山修司はよく理解し、見事な形で作品化している。

これは寺山が、精神分析学を見せびらかしとしてでなく、自らの生きる方法として実践していたことの証ではないだろうか。

いろいろと考えることの多かった、実りある舞台であった。

この劇団の今後の活躍に注目したいと思う。

なお、『田園に死す』は11月19日(日)の二回の公演で終了してしまうので、明日にでも、もし無理なら次の機会にでも是非ご覧ください。

また、寺山修司については、このブログ内のエッセイのコーナーでも、未完ではありますが、考察しています。ご興味のある方はこちらもどうぞ。

2006/11/17

原画を見に行こう

ついに『「世界の神々」がよくわかる本』の表紙の原画が見られます。

これはうれしい機会です!

『神々』の表紙を担当してくださったイラストレーター・長野剛さんの作品展「Dreams Gate-The Artists of The Round Table-」が開催されるのです。

前回の「ごめんなすっ展展」に伺った際、長野さん御本人から、「次回はファンタジーものです」と聞いておりましたが、

確かに!

長野さんからいただきました案内ハガキに載っていたイラストをご覧下さい。
Dreamsgate
(一番右が長野さんのイラストです。)

うーん、私、こう見えても、怪獣好きなのです。
たまりません。


肝心の展覧会の情報を載せておきます。

期間は、2006年11月27日(月)から12月2日(土)までの6日間
時間は、12:00〜19:00(最終日は17:00まで)
場所は、Gallery華音留(かおる)

長野さん以外の出品者は、玉神輝美さんと影山徹さんです。

ご興味のある方は、この機会を是非お見逃しなく!

2006/11/15

「できません」が言えなくてー他人指向的コミュニケーションの現在形(2)

手間のかかる仕事の方はまだまだ続いているのですが、風邪の方はすっかり良くなりました。

その仕事の方はそのうち報告することにいたしまして……。

間があいてしまいましたが、今回も、現代の若者のコミュニケーションの問題を考えてみたいと思います。

現代の20歳前後の若者の多くは、他人の意見を重視する他人指向型の性格を持っている。

これが私の診断なのですが、そうだとすると、この若者たちがいずれ就職して世の中に出ていく頃、つまりあと1、2年くらい経つと、あちこちで予期せぬ問題が生じてくるのではないかと思うのです。

なぜなら、彼らの上司となる人物、つまり40代〜60代後半の中高年は、彼らと異なるタイプであるため、彼らとうまく折り合いがつかないのではないかと推測されるからです。

この40代〜60代後半の人々というのは、だいたい1940年代から1960年代に誕生しています。このエポックに、日本人は、第二次世界大戦での敗戦とその後の急激な経済成長という、社会的・文化的な激変を経験したわけです。

そして彼らの多くは、自分の中に多かれ少なかれ、なにがしかの目標を持っていて、それに向かって前進することを良いことだと思っている人々だと言えるでしょう。

例えば、
社会的に重要な地位に就きたい、
経済的な成功をおさめたい、
良い学校に入って高い学歴を積みたい、
一所懸命に働いて会社の実績を上げたい、
自分の人生をゆとりのあるものにして楽しみたい、
社会を良くしたい、etc。

こういった目標に向かって、信念を持って生きる(コミットする)という生き方を、今の40代〜60代後半の人々の多くはしてきたし、現在もしているわけです。

この価値観は、その名残を私自身もある程度、共有しているものなので、よくわかります。

一言で言えば、いかに独自の価値を実現するのか。
そういうことに主眼を置いている生き方だということです。

ただ、この手の目標は、最初から自分自身で持っていたわけではないのですね。
なんとなく自分の周囲(親や学校や社会など)で良い目標とされていて、それを引きついだにすぎません。

一例を挙げると、ワシントンや野口英世、ナイチンゲールや二宮尊徳、エジソンや坂本龍馬といった偉人の伝記が多く書かれていて、それを子供に読ませることに典型的にあらわれています。

つまり、まさに『巨人の星』に見られるように、「星(スター)を目指してガンバレ!」というメッセージがそこに込められているのです。

(ちなみに、ものすごーく面白い現象だと思っていることがあります。

それは、ウチの近所の大型レンタル・ビデオ店で、最近『巨人の星』のDVDが置かれたのですが、全くと言っていいほど借りられていないということなのです。本家本元の読売巨人軍の人気の凋落以上に、何かを目指すという生き方そのものが、時代錯誤ということなのかもしれません。)

とにかく、自分の中に、他の人には邪魔されたくない路線があって、それを達成すべく内なる羅針盤に従って生きていく。

こういう人間のタイプのことを、リースマンは、「内部指向型の人間類型」と呼んでいるわけです。

一方で、現代では、自分の中に目標があって、それを達成しようと生きるのではなく、他人の意見を重視するタイプ(他人指向型の人間類型)の若者が多くなりつつあります。

おおざっぱに言えば、中高年は、他人に揶揄されても自分の生き方を崩さないことに価値を置くわけです。

それに対し、若者は自分の意見を曲げてでも他人とうまくやっていくことを選択する方が良いと考えているということです。

デジタルARENAに載せたエッセイの例で言えば、私(教師)は「やる気のある学生に、学生自身のためになるような勉強の機会を与えよう」と思い、選択制のレポートを課します。

ところが、私からすれば信じられないことなのですが、彼らは自分がやりたいかどうかでなく、私がやってほしいと思っているかどうかを考えてしまう。

そして、レポートの期限が過ぎても、「できませんでした」のたった一言がどうしても言えないのです。

それは、 たぶん、私との友好的な関係に、ヒビが入ってしまうのが怖いからに他なりません。

これは場合によってはかなり深刻な事態を招くことになります。

年上の者は、自分が受けてきた教育や慣習、あるいは経験から獲得した信念に従って、自分が正しいと思っているやり方を若者に教えようとします。

すると若者は、「ふむふむ」と素直に聞いている。だから、年長者は自分の考えが伝わったかと、こっそり一人でほくそ笑むわけです。

ところが、実のところ、若者は年上の者が教えた内容が良いと思ったから頷いているのではありません。

それは「ぬかよろこび」というもので、若者はただ相手の機嫌を損ねたくない、怒らせたくない、まずいつきあいをしたくないという理由で、年長者に合わせているだけなのです。

ですから、時折、年長者が教えたこととは全く違うことを平然とやってくる。すると、オジサン・オバサンは、

なんじゃ、こりゃ!? ワシの言うこと、わかっとるんか!!

と驚き、あきれ、しまいには怒りに転ずるというわけです。

かつてのワタクシが、まさにそうだったのですが。コホン。。。

一方、他人指向的な若者だって、いつまでも他人に合わせているわけにはいかなくなってくるわけです。要するに、我慢にもホドがあるというわけですね。

そこで、にっちもさっちも行かなくなった彼らの行き着く先は、エッセイにも書きましたが、ジレンマにおちいった挙げ句、コミュニケーションの切断を引き起こすということだと思います。

ですから、年長者は若者に、「がんばれ、がんばれ」とか「自分の信念を持って」などと言わない方がよいこともあるのです。

そう言うと、若者は自分の本当の意思に反したことでも頑張ろうとしてしまい、挙げ句の果てにコミュニケーションを遮断し、自己のうちに閉じこもるしかなくなる。そういう結果になるからです。

では、どうしたらよいか。

実は、私には、おおよその対処の仕方がわかっています。そして実際、そのやり方でもって、彼らと接し、ある程度の効果を上げてきました。

それはさておき、私が今、考えているのは、他人指向的な若者は近い将来、避けて通ることのできない大きな問題、内部指向的な人々が遭遇しなかった問題に直面するだろうということなのです。

2006/11/13

ただいま、風邪ひきにつき……

ここのところ、ひどい風邪をひいてしまっていたのと、ちょっと手間のかかる仕事をしている都合で、すっかりブログから遠ざかっておりました。

ちょくちょく見に来ていただいている方、本当に申し訳ありません <(_ _)>

しかし、今回の風邪はかなりしつこいです。熱は出ないのですが、だるーい感じが長く続きます。

みなさま、くれぐれもご自愛下さい。

2006/11/03

他人指向的コミュニケーションの現在形

『日経BP net』の「デジタルARENA」に掲載された第2回めのエッセイの補足です。

私は、神話分析の具体例として、現代の日本のアニメを学生に見せて、それを実際に分析するという授業を行っています。

アニメの分析というと、ひどく幼稚に聞こえるかもしれませんが、そうは問屋がおろしダイコン! 

実際に私が分析をしてみせると、さりげなく描かれた場面から、心理学やら構造主義やら哲学やらの問題を発見できるのに驚く学生が少なからずいるのです。

確かに、現代の漫画家はいろいろなことを本当によく勉強し、しかも勉強しているだけでなく、それを作品という形にまで昇華させているのだと、感心することしきりです。

私の知り合いの編集者の方は、昔、漫画を担当していたというのですが、実は、彼から興味深いことを聞きました。

漫画家はみな中学・高校時代に、絵の勉強は必死にやるけれども、ストーリー作りはほとんど勉強してこない。しかも、若くしてデビューすることが多い。

だから、編集者が、これを読め、あれを読め、と言って、神話学や心理学、文学関係などの専門書を渡したり、教えたりして、ストーリー作りに役立つ知識を与えているのだとか。

アニメが神話分析の手法で分析できるのも納得ですね。つくづく、現代の日本文化を盛り上げているのは、漫画やライトノベル、そしてそれを映像化しているアニメだと感じ入るのです。

ところで、話の本題は、漫画家や小説家がよく勉強しているということじゃなく、アニメを鑑賞している時の学生の態度についてなのです。

そのアニメ、実は、問答無用に面白い。とにかく面白い。

私など最初に見た時、腹を抱えて、笑い転げたほどなんです。いや、大げさに言っているのではなく、文字通り、ごろごろ転げ回りました。本当にそれくらい面白いのです。

(ちなみに、ストーリーの内容は、回が進むにつれて、深刻になっていくのだけれども。)

しかし、学生は、そんな面白い場面に出会っても、くすりとも笑いません。

そこで、私はこう思いました。学生はきっと授業で鑑賞しているから、真面目に見ないとダメだと思っているんだろう、と。

そこで私は、鑑賞前に学生に向かって、「アニメが面白かったら、正直に笑っていいんですよ」と言ってみました。けれども、やはり笑わない。

それじゃあ、彼らにとって、その作品は面白くないのかというと、そんなことはないようなのです。

というのも、鑑賞後に私が「みなさん、面白かったですか?」と聞くと、学生はみな笑みをたたえながら頷くからです。

(じゃ、なんで笑わんのよ?!)と、すぐさま心の中で突っ込んでみる私。

……閑話休題。

些細なことにこだわっていると、思う人がいるかもしれません。けれども、私が見るところ、ここには現代の若者文化を考えるひとつの大きな問題が潜んでいると思うのです。

というのも、全く同じアニメを、今度は、生涯学習の世代、つまり現在40代〜70代の年配の学生に見せると、みんな大声を上げて笑うからです。

(……ちょっと、笑いすぎ……!)とすかさず突っ込む私。

つまり、同じものを鑑賞しても、40代〜70代の中高年の反応と、10代後半から20代前半の若者の反応がきっぱり違うという事態に、私はこの2、3年の間に直面しているのです。

ちなみに、4、5年前には、10代の学生でも確かに笑っていたのです。それが、ここ数年で急に笑わなくなりました。

もちろん、これは私が接している複数の大学の学生に限った話ですが、現在の大学生の感情の発現の仕方はストレートでないと言って良いのかもしれません。

では、彼ら、現在10代後半〜20代前半の若者たちは、どんなふうに感情を表出するのでしょうか。D.リースマンはこう述べています。

女の子が友だちといっしょに映画を見に出かけたとする。

彼女は映画を見ているあいだはべつに、友だちと話しあう必要はない。

だが、映画を見ながらも、ときどき次のような問題に直面する。

すなわち、悲しい場面で自分が泣くべきか、否かといったような問題がそれだ。

映画の進行に伴って、それぞれの場面でどんなふうに反応するのが望ましいかといったようなことが気になるのである。

アート・シアターのたぐいから出てくる観客たちを見ていると、あきらかに、かれらは次のような問題に当面しているように見える。

すなわち、自分は何らかの反応を示さなければならない。だがどんなふうにその反応を示したらいいのか?
( D.リースマン(加藤秀俊訳)『孤独な群衆(The Lonely Crowd)』みすず書房より引用。ただし、適宜改行を施した。)

ここに描かれているのは、見に行った映画について、「面白かったね」「つまらなかったね」という論評すら、自分ひとりの感情からではなく、友だちの顔色をうかがってから下す若者の姿です。

このように、他人に自分を合わせるように生きる人たち、
他人の複雑な欲求・感情を鋭敏にかぎわけることができるような人たち、
自分の感情を曲げてまで他人の意思を尊重する人たちのタイプを、
リースマンは「他人指向型の人間類型」と呼びました。

リースマンが描いた「他人指向的な生き方」という現象は、実は、1950年前後のアメリカ社会に出現してきた現象なのです。

けれども、これが、私のクラスを履修した10代から20代の若者のアニメ鑑賞の態度に似ているとはどういうことか! ここに非常に驚きを感じます。

私の学生は、まわりの人が笑っていないから、という理由で、笑いをかみ殺していた、そういう可能性があると思うのです。言い換えるならば、他人の反応を重視する「他人指向的な人間」だということになります。

もしそうだとすると、見過ごすことのできない問題が、これから生じてくるのかもしれません……。

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