捏造問題と監修の仕事
最近、痛感するのは、「あるある大事典」の納豆効果にまつわる捏造問題は、人ごとではないということ。
もちろん、「あるある」の場合は、結果を故意に作り替えているという悪質な捏造ではあります。
けれども、意図していないにもかかわらず、一種の「捏造」に携わってしまうということが、実は、「ものを書く」という行為には常につきまとっていると思うのです。
どういうことか、私が知り得た具体例を述べる前に、まずは、谷沢永一氏の文章を、長いですが、引用してみましょう。
評論家の本多顕彰さんの著書に『漱石山脈』という評論集があります。
昭和二十一年五月号の『新潮』に載った本多さんの「漱石山脈」という評論は非常に有名なものでありますから、
それが一冊の標題になっておって、そして奥付を見ると「昭和二十二年五月三十日初版発行、
昭和二十三年十月十五日再版発行、
八雲書店」と、こうなっておるわけであります。
そこで何人かの学者が、昭和二十二年版の『漱石山脈』という単行本の評論集を引用するわけであります。
つまり、自分の見たのが再版であるのに、奥付には初版の日付も書いてありますから、だからそういう初版があるんだろうと思って、あたかも自分が初版を見たような顔をして
「『漱石山脈』(昭和二十二年五月)によれば」
と、こういうようにして引用するわけでありますが、
お気の毒なことに、この世にそういう書物は存在しないわけであります。
つまり、この本が最初に出た時は、初版は『孤独の文学者』という標題でありました。この標題で八雲書店は昭和二十二年五月三十日に発行いたしました。
ところが、その中に収まっている「漱石山脈」という論文一篇だけがあまりに有名になりましたので、そこで再版の時に本の題を変えてしまったわけです。
だから、この本は初版では『孤独の文学者』であって、再版になって初めて『漱石山脈』と題が変わった、しかも題を変えましたということがどこにも書いてない。
ですから、この場合、私は、「『漱石山脈』(昭和二十二年初版)によれば」というようなことを書いた学者は、だから信用できないんであります。
その人は嘘つきであります。嘘つきであることが絶対的に暴露されているわけであります。
もし嘘やないと言い張るなら、昭和二十二年版の『漱石山脈』という標題の評論集を探して来なさいと言いたいわけでー。
ございません、そういうものはー。
(以上、谷沢永一『読書の悦楽』PHP文庫、129ー131頁より引用。ただし適宜改行・強調などを施した。)
要するに、自分の目で見ていないにもかかわらず、あたかもそれが存在するかのようにして文章中に書いてしまう。
ところが、本人は大丈夫だと思っていても、それが実際には存在せず、結果として嘘を書いたことになる。
つまり、無意識のうちに、一種の「捏造」に関与してしまっているわけです。
谷沢永一氏がこの引用の中で批判しているのは、文学研究者に対してなのですが、実は、今回(と前回)、私も、PHP文庫の監修の仕事をして、谷沢氏が直面したのと同じ問題につきあたりました。
執筆者の皆さんが用いた引用文献の妥当性をチェックしている時に、何度、「あ、この文献の著者、ひょっとすると、谷沢氏の言う『嘘つき』かもしれない」と、思ったことか。。。
少なくとも、なにがしかの文章を書く人間は、それが公に出版されるものはもちろん、気軽な気持ちで書いた私的なブログの記事でさえも、自分が書いた資料に関しては、孫引きをしたのならば、直接自分で現物を見たかのようにして書かないということ。
可能ならば、現物を見る。けれども、様々な制約があって現物を見ることが叶わず、孫引きせざるを得ないなら、孫引きだと、誠実に正直に書くということを再確認した次第です。



















