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2007年6月の19件の記事

2007/06/23

増刷のお知らせと大きな亀

みなさまにご愛顧いただいております、
『「世界の神々」がよくわかる本』と
『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』ですが、
二冊同時に増刷が決定しました!

これで、『神々』は27刷、
『神獣・モンスター』は5刷となります。

ありがとうございます。
これからもご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。

そうそう!
贔屓(ひいき)という言葉、
日本では「目をかける」という意味でおなじみですが、
実は、中国では「贔屓」というのは龍の子供なんです。

ただし、その場合、読み方は
「ひいき」ではなくて、「ひき」。

ちなみに、諸橋轍次の『大漢和辞典』を引くと、
「ひき」は「大きい亀」と書かれています。

この亀は重い物を好むといいます。

贔屓が龍の子供であることと合わせて、『升庵外集』(しょうあんがいしゅう)という文献に記されています。

Rimg0007_1_2

Hiki_3

上は『升庵外集』の中の龍の子供に関する箇所です。

ということで、

『神獣・モンスター』の中にも、「贔屓」が出てくるのですが(p256)、
そこでのルビは、以上のことを踏まえて、「ひいき」でなくて、「ひき」としてあります。

決して誤植ではありません。(^-^)

2007/06/22

『日本の神話・伝説を読む』の紹介と「クソマル」

学習院大学の佐佐木隆先生(古代日本語学)が、
日本の神話・伝説を読む—声から文字へ』(岩波新書)という本を出版されました。

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ごく簡単に内容をまとめてみますと、音の連鎖や、イメージの連想を重視した古代人特有の発想を、神話・伝承の中から読み解くというものです。

章立ては以下のようになっています。

序章  神話・伝説の生まれた時代
第一章 想像力が伝承を生み出す
第二章 伝承の世界を読む
第三章 伝承の深層を探る
終章  神話・伝説の変容—上代から中古へ

実は、この本の中で、拙著『クソマルの神話学』が言及されています。

具体的には、第二章第四節の「謀反を起こして死んだ夫婦」の箇所で、「クソ」の語義的・構造的な類縁関係についての私の議論を、かなりの紙幅を割いて、取り上げていただきました。

拙著に関しては、書評はこれまでにいくつかありました。ですが、私の知る限り、実際に論文や書籍の中で引用・参照されたのは、今回が初めてだと思います。

ありがとうございました。 m(__)m

私も次の仕事をがんばろう、と思った次第です。

*その後、福田育弘著『「飲食」というレッスン フランスと日本の食卓から』(三修社)にも、『クソマルの神話学』が引用されていることがわかりました。

2007/06/21

『猫はなぜ絞首台に登ったか』の書評のお知らせ

英文学者の高山宏先生に、
拙著を書評していただきました。

出版されてから3年たった
猫はなぜ絞首台に登ったか』ですが、
久しぶりに公的な空間で
取り上げていただきました。

ありがたいことです。<(_ _)>

書評の内容は、ずばり
新歴史学との関連です。

ちなみに、高山先生は猫がお好きのようで、
猫を抱いた写真も掲載されています。

ご興味のある方は、こちらから、どうぞ。

2007/06/20

『神獣・モンスター』4刷です!

『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』、
おかげさまで、4刷が決定しました!!

今回、シリーズものにたずさわってみて、わかったのですが、
シリーズものを出すと、シリーズの最初の方も
売れる傾向があるようなのです。

実際、ありがたいことに、
シリーズ第一弾の
『「世界の神々」がよくわかる本』も
好調とのこと。

本当に、ありがたいことです。

2007/06/18

「フジヤマ」から「ちびまる子ちゃん」へ

今、山梨にある都留文科大学で、
カリフォルニア大学から来た留学生を対象とする、
「日本研究(歴史・文化)」
という講義を行っています。

ところで、外国から見た日本のイメージというと、
これまでは、江戸期の浮世絵やクロサワの映画
などの影響からか、

武士(サムライ)
富士山(フジヤマ)
芸者(ゲイシャ)
京都(キヨート)
相撲(スモウ)

といったようなものだったと思います。

この日本のイメージは映画の中に典型的にあらわれていて、
近年の作品で言えば、

「サムライ」のイメージは、
トム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』
という映画の中で具現化され、

ゲイシャのイメージは、
スピルバーグ制作の『SAYURI(さゆり)』
という映画の中に
描かれたりしているのはご存じの通りです。

ところで、このイメージ、
今、変容の時を迎えているようです。

現代のアメリカの大学生のうち、
日本にやってくる留学生は、
みんな日本のアニメやマンガを見て育っている世代なのです。

実は、この前、ワタクシ、
授業の前に彼らにいくつか質問してみました。
そして、返ってきた答えは以下の通り。

(Q1)日本で最近買ったもの
→『ちびまる子ちゃん』のマンガ

(Q2)今一番行きたい場所
→アキハバラ

(Q3)最近読んだものの中で一番面白いのは?
→『フルーツバスケット』『東京少年少女

(Q4)アニメで一番好きなのは?
→『平成狸合戦ぽんぽこ』
(にぎやかで楽しいから好きとのこと。)

はあー、なるほど。

なんてたって、
『サクラ大戦』だって、『機動戦士ガンダム』だって、
『ドラゴンボール』だって、知っているのです。
(ホント、私より知っています。)

ところで、『サクラ大戦』といえば、
つい先だって、(物見遊山と)ある調査のために、
ゲーム会社セガのアミューズメント施設・
池袋ギーゴに行ってきました。

このビルのフロアは、とにかく、
上から下までゲーム、ゲーム、ゲーム……。

さまざまなゲームであふれかえっています。

そして、一番上には、ワタクシお目当ての
『サクラ大戦』のカフェとグッズ売り場が出店。

グッズ売り場に入ってみると、
『サクラ大戦』のファンになった少年少女
(だけではあるまい人々)によって書かれた、
芳名録代わりのノートの山が!

ぱらっとめくると、

「感動しました!」

「今回で二度目です!」

という激白が、『サクラ大戦』のキャラクターのイラストと共に
無数に書き込まれておりました。

ちなみに、セガ・アミューズメントのビルの途中には
婦女子しか入れない階もありました。

(ワタクシは、もちろん入れました。中は、…… 
実は、プリクラのフロアでした。)

そして、このビルの全フロアを、
小学生以下の子から大人までが、
揃いも揃って超満員という状態。

もう圧倒されたの一言です。

このビルには今携わっている本の執筆のために訪れたのですが、
この話を、留学生にすると、
「いいなあ」という溜息が。。。

だいたい、彼らの頭の中では
東京の中心地が秋葉原になっていて、
「池袋って秋葉原から向かってどのあたりですか?」
という質問が来るぐらいなんです。

ということで、今、外国の若者たちが持つ
日本のイメージは、
日本発信のマンガやアニメに描かれたイメージに
変わってしまったようなのです。

2007/06/17

へるめす通信40

—(ジョルジュの孫)てな具合で、
 ヴィーコにとっての共通感覚とは、
 哲学者ガダマーによれば、
 次のようなものだと言うの。

正しいことと万人の幸福についての感覚であり、すべての人間のうちに息づいている。(中略)それぞれの生活の共同性によって獲得され[たものである]。
(ハンス=ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅰ』轡田ほか訳、法政大学出版局、p31、[ ]内筆者補充)

—(村人A)はあ。。。 (-_-)zzz

—(ジョルジュの孫)こらぁ、気合い入れて聞けぃ!

 ところでね、ポイントは、この共通感覚を、
 青年たちに対して、おおいに教育すべきだって、
 ヴィーコが考えていたこと。

 つまり、たとえて言えば、
 共通感覚への志向っていうのは、
 すべての人類の中に種(たね)として
 存在しているけれども、
 種が芽を出すためには教育が必要だってことなの。

 共通感覚は、自然発生的なものじゃないわけ。

—(村人A)ふーん。
 そうすると、現代社会において、
 共通感覚を前提とする「良心」にのっとって
 宣誓をするってことは、ですよ。

 現代社会では、まず共通感覚を育成する教育を
 行っているし、あっしらの社会はこの教育によって、
 みんなが共通した感覚を持っている
 一種の共同体であるってことになりますね?

 これが正しいかどうかじゃなくて、少なくとも、
 裁判員制度はそういう仮定を前提としているってことですよね?

—(ジョルジュの孫)そうなるわね。

 でもね、私自身は、現代社会では、
 共通感覚を共にしている共同体、あるいは「共同存在」は、
 崩壊寸前だと思う。

 それに、教育によって、それを補うのは、
 なかなかたいへんじゃないかなあ?

 だから、裁判員制度を成り立たせる基盤が
 成立しなくなっているんじゃないかって気がするけど。

—(村人A)だけど、現代はグローバル社会だから、
 いろんなメディアを通じて、
 日本の中の大小の共同体を超えた
 世界共通の感覚みたいなものが、
 育成されつつあるんじゃないですかね?

—(ジョルジュの孫)確かに、その側面もあると思う。

 だけど、「良心に誓って、誠実な判決を下します」
 っていう場合、
 その「良心」が暗黙のうちに前提にしているのは、
 グローバル社会なのかな?

 もっと小規模の集団が共有する感覚なんじゃ
 ないだろうか?

 そういう問題がやっぱりまだ残っていると思うけど……。

へるめす通信39

—(村人A)
 つまり、あっしが仮に裁判員に選ばれたとしたらですよ。
 「良心に従って、誠実な判断を下します」って誓う場合、
 前提となっているのは
 「他の人との共通の感覚」だってことですね?

—(ジョルジュの孫)おおざっぱにいえば、そう。
 宣誓っていうのは、(文章のどこにも書いていないけど)
 知識を共有する共同体のようなものを、
 暗黙の前提にしているということになるのね。

 ただし、もちろん、「良心」って言葉は
 歴史的な変遷を遂げてるから、
 本当はそう単純にはいかないんだけど。

 それに、古代ギリシア・ローマ世界の「良心」と、
 キリスト教世界の「良心」じゃ、
 意味が違ってくるだろうし。

 もちろん、近現代の「良心」ってのは、 
 もっと複雑だと思う。

—(村人A)ははあ、いろいろと、
 ややこしいんですね?

—(ジョルジュの孫)そう。それだけで、
 一冊じゃすまないくらいの本が書けるくらい。

 だけど、ここで重要なのは、
 「良心」という言葉の言説史的・思想史的な
 変遷じゃないってこと。

 そうじゃなくて、現代の私たちが宣誓をする時に
 基準としている「良心」っていうのが、実は、
 「なんらかの慣習に支えられた共同存在」とか
 「共同体」とか「共通感覚」 みたいなものを
 暗黙の前提としているということだと思う。

—(村人A)ふーん、なるほどね。
 そこで、ちょっとわからないのは、
 「共通感覚」っていう言葉だなぁ。。。

—(ジョルジュの孫)
 今、私が述べた「共通感覚」について、 
 一番重要なのは、
 ……ヴィーコかなぁ?

—(村人A)……またもや、ややこしい名前が
 出てきましたね。

 誰ですか、それ?

—(ジョルジュの孫)
 17世紀から18世紀のイタリアの哲学者よ。

 ヴィーコはね、「共通感覚」というのは、

 あるグループ全体、ある民族全体、ある国民全体、
 あるいは全人類によって共通に感じられている、
 なんらの反省を伴わない判断のことである

 というようなことを述べてるの。
 
(以上、ヴィーコ『学問の方法』上村・佐々木訳、岩波文庫、p159
  および ハンス=ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅰ』轡田ほか訳、
  法政大学出版局、p29などを参照)

—(村人A)?

 ある集団に共通だってのはわかりますが、
 「反省を伴わない」ってのは、どういう意味なんです?

—(ジョルジュの孫)つまり、ある判断に対して、
 心の中で吟味したり、よく考え直してみるということを
 しないで、習慣的に受け入れてしまっているってこと。

 「常識」って言葉に置きかえてもいいと思う。

 「常識」っていうのは、ある集団に共通していて、
 それがいちいち正しいかなんて考えもしないで、
 従っているでしょ?

—(村人A)……なるほどね。

2007/06/15

へるめす通信38

—(ジョルジュの孫)
 で、コンシャンス(conscience)なんだけど。
 普通、良心(コンシャンス)といったら、
 あなた、一番最初にどんな言葉を想像する?

—(村人A)そうっすね。やっぱ、
 「良心の呵責(かしゃく)」ってやつですかね。

 つまり、悪いことをしたり、考えたりすると、
 あっしの善良な心が、
 「そんなんじゃ、ダメ、ダメ、ダメだよ〜」って、
 すぐに突っ込みを入れてくるんですよ。

 「良心」っていったら、そういうのを想像しますね。

—(ジョルジュの孫)うん、普通はそうだよね。

 ところが、すごく面白いことに、
 良心(コンシャンス)の意味はもともと
 「共に知っているもの」なのね。

—(村人A)へ? 
 「良い心」って意味じゃないんですか。

—(ジョルジュの孫)うん。
 コンシャンス(conscience)という言葉の頭に
 くっついているコン(con-)という接頭語は、
 「共に」って意味なの。

 ラテン語では、コンスキエンティアconscientia。

 ラテン語の接頭語con-も「共に」って意味なのよ。

—(村人A)へーほー!

—(ジョルジュの孫)それだけじゃなくって、
 その後ろのscireは「知る」って意味なの。

—(村人A)ふーん。
 じゃ、ほんとに、コンシャンスは、
 「共に知る」って意味なんだ。

—(ジョルジュの孫)ちなみに言うと、
 古代ギリシア語では、シュネイデーシスsyneidēsisって
 言うんだけど、これもやっぱり
 「知を共にする」というような意味なのよ。

 とすると、良心(コンシャンス)ってのは、
 もともと、知識を共にするような存在とか、
 誰かと共有する感覚とかが前提になっていると
 思われるわけ。

—(村人A)あ、なんとなく、わかってきましたァ!

2007/06/11

(4)ボルヘスとフーコーの巻

前回、中国古代の動物分類について触れたので、
今回はそれに関連したことを述べてみます。

さて、神獣やモンスターに関して調べようとすると、
一度はたどりつくのが、
ホルヘ・ルイス・ボルへスの『幻獣辞典』

ご存じの方も多いと思いますが、ボルヘスというのは、
アルゼンチンの詩人・作家・学者です。

1899年生まれ。博覧強記で有名で、
1955年56歳の時に、国立国会図書館長に任命され、
1986年87歳で亡くなっています。

実は、私が一番最初にボルヘスに出会ったのは、
ボルヘスの作品そのものではなくて、
思想家ミシェル・フーコーの著作の中でした。

フーコーは、『言葉と物』という著作の冒頭で、
ボルヘス著の『続・審理』
(原題は“Otras inquisiciones, 1937-1952”)
の一部を引用しながら、
歴史的研究における「エピステーメー」の
観点の必要性を説いてます。

これを読むと、フーコーはすごいと
感心してしまうのですが、まずは、
フーコーの思索の出発点となっている、
このボルヘスの著作を含む部分を引用してみましょう。

この書物[=フーコー『言葉と物』]の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。[中略]そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。

「動物は次のごとく分けられる。

(a)皇帝に属するもの
(b)香の匂いを放つもの
(c)飼いならされたもの
(d)乳呑み豚
(e)人魚
(f)お話に出てくるもの
(g)放し飼いの犬
(h)この分類自体に含まれているもの
(i)気違いのように騒ぐもの
(j)算えきれぬもの
(k)駱駝(らくだ)の毛のごく細の毛筆で描かれたもの
(l)その他
(m)いましがた壺をこわしたもの
(n)とおくから蝿のように見えるもの。」

(ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、1974年、p13。ただし、[]内筆者挿入。適宜改行を施した。)

さて、ボルヘスが書いている
「シナの百科事典」の中の動物分類の何が問題かというと、
現代の私たちなら絶対にしないような、
思わず首をかしげてしまうような分類をしている
ということなのです。

フーコーの見解を、私流にまとめると、
次のように言えると思います。

例えば、私たちが誰かに
「動物を分類してください」と言われたら、
上記のような分類はしないでしょう。

具体的に言えば、
私たちは、豚・犬といった分類をするかもしません。

けれども、
「(d)乳呑み豚」や「(g)放し飼いの犬」というふうに、
豚や犬の上にこんな限定をつけて、分類はしないはずです。

そういう意味で、この「シナの百科事典」は、
現在の私たちの常識とは違う動物分類をしているわけです。

こういう疑問は他にもあって、
「(m)いましがた壺をこわしたもの」や
「(n)とおくから蝿のように見えるもの」が
なぜ動物の分類の中に入っているのか。

さらには、
「(h)この分類自体に含まれているもの」とは何なのか。

こういう疑問が噴出してきて、そのわからなさの前に、
ニヤリとするしかないということなのです。

ところで、フーコーがすごいのは、
この分類を一笑に付さなかったことでしょう。

つまり、フーコーは、このわけのわからない動物分類から、
人が事象を認識したり、行為したりする時に前提となる、
特定の時代に独特の、ある種の枠のようなものがあると
考えたのです。

そしてそれを、エピステーメーと呼びました。

一応、フーコーのエピステーメーの説明を
引用しておきましょう。

<エピステメー>なる用語によってわれわれの解するのは、或る与えられた時代において、諸々の認識論的形象、科学、そしてときには形式化されたシステムを生み出すさまざまな言説=実践を統一する諸連関の総体である。
(M.フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳、河出書房新社、1981年、p290)

要するに、ボルヘスが記した
「シナの百科事典」の動物分類は、
その百科事典が書かれた時代の「シナ」に特有の
言説=実践の諸連関の総体から生み出されたものなのです。

それは、現代の私たちが事や物をとらえる時に
前提とするものとは違う枠のように思われるので、
私たちはそれを見ると、
理解困難に陥り、とまどうということになります。

で、話をボルヘスに戻します。

こんなふうに、ボルヘスの著作は、
フーコーの思想の鍵のひとつである
エピステーメーという発想を開く、
重要なものだということなのです。

実は、私は、上記の箇所を
かつて論文で引用したことがあります。
そして、その際に、先ほども述べたように、
ボルヘスと出会ったということになります。

ですから、あのフーコーにインスピレーションを与えた
ボルヘスが書いたものだということで、
『幻獣辞典』に対しても、私はかなり信頼を置いていました。

ところが、監修をやっていて大きな問題にきづいてしまいました。

以来、この辞典は楽しみでながめることにしています。

2007/06/10

やはり、今回も良かった!

昨日のことなのですが、「ザムザ阿佐ヶ谷」へ、
寺山修司の『青ひげ公の城』の舞台を見に行ってきました。

Aohige



演じているのは、劇団☆A・P・B-Tokyo

昨年、この劇団が、同じく阿佐ヶ谷で、
寺山修司の『田園に死す』を上演し、
あまりに良い舞台だったので、
次の公演も逃さず見ようと
思っていたからです。


行ってみると、前回の舞台を見た方々は
みな私と同じ感想だったのか、
もう超満員の観客でした。

私はなんとか座れましたが、中には立っている人も。

このぎっしり感は、唐十郎のテント劇場に行ったとき以来です。

そして、舞台の方は、……。

正直言って、途中まで、
これは何をテーマにした話なのか、
よくわからないなあと思いながら見ていたのですが、
最後まで見ると、なるほど!

いや、なるほどなんてものじゃなく、
感動しました!!

こんな難解なテーマの戯曲を
人に感動を与えるまでに仕上げてくるとは!

これは、寺山の戯曲の良さはもちろんのこと、
演じている役者さん達の熱意や演出のうまさにも
よるのだろうと思います。

とにかく、全体として、
とても真剣かつ真摯なものを感じました。
途中から、座席の窮屈さが
ぜんぜん気にならなくなるのです。

ところで、
戯曲のテーマは、(私が思うに)
ずばり現実と虚構。
あるいは、現実の演劇性といったところでしょうか。

別の言い方をすると、
エスノメソドロジー的な問題を、
戯曲で表現しているということです。

すごいなあ、寺山修司。
天才だとつくづく思ってしまいます。

そういえば、
私に寺山修司の戯曲を紹介してくださった
山口昌男先生と、以前に、
寺山の天才について話したことがあったのです。

その時、あの山口先生が、
「寺山の作品があれば、僕の本なんかいらないね」
とおっしゃっていたので、びっくり。

その時は、
「いえ、先生と寺山修司では役割が違いますから」
と答えた記憶があります。

それは今でもそう思っていて、
学者と芸術家では同じことを表現するにしても、
表現方法が違うし、社会の中での役割も違うと思うのです。

けれども、その一方で、
山口先生のおっしゃることも
よくわかる気がするのです。

学者は理詰めで、時として難解な言葉で
表現せざるを得ない部分がありますが、
芸術家はアレゴリカルな表現が可能です。

だから、どんな人もその世界に
すうっと入り込むことができ、
なおかつ人間の感情を
激しくゆさぶるという点では、
学問は芸術には勝てないのかなと
思ったりもするのです。

ということで、『青ひげ公の城』、
今日が最後の公演です。

もしかすると、立ち見の可能性もありますが、
ご興味のある方はお見逃しなく!
オススメです。

2007/06/08

へるめす通信37

—(ジョルジュの孫)そうだよね。
 よほどのことがない限り、みんな、
 思わず助け出さなきゃと思うに違いないわけ。

 その時のあなたの心情は、損得勘定とは別物でしょ?

—(村人A)そんとくかんじょう?

—(ジョルジュの孫)うん、損得勘定。

 つまり、この赤ちゃんを助けたら、
 親から感謝されて、金一封がもらえるとか。
 みんなから誉めてもらえて、警察から感謝状がくるとか。
 逆に、助けなかったら、責められるとか。

—(村人A)まあ、確かに、とっさのことだから、
 そんなことを考えずに、勝手に体が動きますよね。

—(ジョルジュの孫)そうでしょ。
 たぶん、すごーく自然に、赤ちゃんを助けようと
 思うんじゃない?

 それが、孟子先生の言うところの良心であるわけ。
 こんなふうに、人間の本性はもともとは良いものであって、
 落ちようとしている人を見殺しにはしない、と孟子先生は考えたの。

 だから、孟子先生は、良心というのは、
 仁義の心と同じものと考えていたみたい。

—(村人A)じんぎのこころ?

—(ジョルジュの孫)そう、仁義の心。

 「仁」というのは、いつくしむ心。
 「義」というのは、正しい道を行おうとする心。

—(村人A)へー、なるほど。これが良心かあ。
 あっしは、仁義の心にあふれてる人間ってわけですね。

 さすが!!

—(ジョルジュの孫)いや、違う。人間みんなが、そうなんだって。

 だけど、現在、裁判の時に誓う「良心」ってのは、
 この孟子先生の言うところの良心ではなくて、
 どちらかというと、西欧の良心コンシャンス(conscience)を
 念頭に置いていると思う。

—(村人A)コンシャンス……?

—(ジョルジュの孫)あ? 今、なんか、ヘンなギャグ、
 考えてるんじゃない?
 きつねがコンと鳴いて、鈴がシャンと鳴るっス、とか??

—(村人A)はあ? なーに、馬鹿なこと、言ってるんですか。
 さっさと、先に進んでください。

へるめす通信36

—(ジョルジュの孫)日本語の「良心」って、
 もともとは、孟子から来ているみたい。

—(村人A)もーし? 
 あの、電話の?
 「もーし、もーし」って?

—(ジョルジュの孫)こらー!!
 「もーしもーし」じゃなくて、「も・う・し」。
 中国の思想家よ。

—(村人A)あ、そっちの「もーし」ですか。

—(ジョルジュの孫)そっちって、ね。
 最初から、そっちしかないのっ!!

—(村人A)へーい。

—(ジョルジュの孫)あァ、ほんと、
 あんたが入ってくると、話が進まないわぁ。

 だから、この連載も、いつまで経っても終わらないのよ。

 で、話を元に戻すと、孟子っていうのは、
 性善説(せいぜんせつ)を唱えた人。

—(村人A)せいぜんせつ?

—(ジョルジュの孫)そう、性善説。
 つまり、あんたみたいな、いい加減な人間でも、
 もともとの本性は善であるというのが、性善説。

—(村人A)とすると、あーたみたいな極悪非道人も、
 全くそうは見えないけど、ほんとのところ、
 心根は良いという?

—(ジョルジュの孫)あんたの例えは最悪だけど、
 そういうこと。

 例えばね、孟子先生が言ってるんだけど、
 よちよち歩きの赤ちゃんが、今、まさに
 井戸に落ちようとしている。

 井戸のたとえが古ければ、穴でも、
 ふたの空いたマンホールでもいいけど、
 そんな場面を見たら、あなた、どうする?

—(村人A)そりゃあ、急いで、かけつけますよ。
 おっこちたら、たいへんじゃないですか!

 純真無垢な赤ちゃんに、一生残る傷がついたら!!

 それよか、死んだら、どうするんですか!!!

へるめす通信35

—(村人A )まあ、正直に言えば、
   宣誓する時には何も考えてませんでしたよ。
   そうやって言えばいいかと思って……。

   なんてったって、選手宣誓ってカッコイイじゃないですか。
   だから、宣誓の内容よりも、
   どうやって、カッコよく見せようかと、そればかり……。

 いや、えーっっと、それに、あれ、形式的なものでしょ?

 

—(ジョルジュの孫)そう、宣誓は形式なのよ。

 そこで、前にも言ったホッブズの問題に戻るわけ。
 前にも言ったけど、ホッブズは次のように言ってるの。

 おさらいしとくと、
 第一に、宣誓者がいつもやっているやり方以外の
 形式や儀礼で行われた宣誓には意味がない。

 第二に、宣誓者が神と考えないものによる宣誓は  
 意味がない。

 とすると、裁判や選手宣誓での誓いが意味を持つためには、
 その誓い方が習慣的なものであり、
 なおかつ当事者にとって神のような存在に対して行う

 ということが重要なわけ。

 

—(村人A)うーん。
 ……それで、実際、宣誓する選手とか、
 裁判員とかに選ばれたら、
 われわれ、何に対して誓うんですか?
 八百万(やおよろず)の神々ですか?

—(ジョルジュの孫)いんや!
 まずは、選手宣誓の場合、
 『「スポーツマン・シップ」にのっとって』
 と言うわけだから、
 スポーツマン・シップなるものが重要でしょう。

 それから、ちょっと、思い出してもらいたいんだけど、
 例えば、かつて日本中を騒がせた耐震強度偽造問題。
 あの時、国会で証人喚問やったよね。

 姉歯元設計士さんたち、こう言って、
 宣誓書にサインしてました。

 「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、
 また何事も付け加えないことを誓います。」

—(村人A) つまり、現代の日本人は、
 「スポーツマン・シップ」とか「良心」とかに従って
 誓いを立ててるんですね。

 それって、……?

—(ジョルジュの孫)そう! 
 裁判の上では、現代の日本人にとっての「神」とは、
 それぞれの人間が持つ「良心(conscience)」
 ということになるわけ。

 スポーツマン・シップはある意味で、その派生型だと思う。

—(村人A)それって、たいへんな問題じゃないですか? 

 あっしらの良心て、そんなに信頼に足るものでしたっけ?

—(ジョルジュの孫)そうなんだよね。
 そこがとっても重要だと思う。

 日本の裁判員制度の導入には、
 いろいろな問題が想定されてるよね。

 例えば、一般人がどうやって忙しい仕事との
 折り合いをつけるのかとか、
 裁判っていうものをそもそも経験したことのない人が
 果たして人を裁けるのか、とかね。

 でも、それ以上の問題は、
 裁判員が厳正な裁判を行う際の基準が、
 個々の「良心」になっているという点だと思う。

 もちろん、裁判員制度が始まる前だって、
 国会の証人喚問や裁判の証人になったが最後、
 「良心」に誓うわけだから、
 ことは裁判員制度の問題じゃすまないわけ。

—(村人A)だけど、なんで「良心」が
 神に代わって宣誓の時に出てくるようになったんですかね?

 というより、良心って、何なんですか?

 

へるめす通信34

—(ジョルジュの孫)まあね。裁判員制度もそうだけど、
 子供はみんなやってるよね。 
 あなたもその昔、誓ったことがあるんじゃない?。

—(村人A)へ? いつ?

—(ジョルジュの孫)ほら、運動会の時の選手宣誓ってやつ。
 「わたくしたち選手一同は、スポーツマン・シップにのっとり、
 正々堂々と戦うことを誓います!」って言ってるよね。

—(村人A)そうだ! あっしも昔やりましたよ、選手宣誓。

 (村人A、遠くを見つめ、呟く。)

 いやあ、こう見えてもあっしは足が速かったんですよ。
 なんたって、100メートルを12杪で走ったんですよォ。
 いやあ、懐かしいなあ……。

 そうだな、風に乗るっていう感じ、わかります? 
 あっしが走ると、こう風がぴゅーっと吹くんですよ。
 いやいや、風を切り裂くっていうのかな? 

 あの興奮はたまりませんね。
 そこへもってきて、いつもは照れくさくって、
 あっしに思いを打ち明けられない女の子も、
 運動会となると、みんなの前で公然と応援できますからね。

 「村人Aーーー!!!」って、まあすごいのなんの。

 黄色い歓声って言うでしょう。まさに、あれですよ。
 しっかし、ホントに声って黄色いんだな。

 他のクラスの内気でかわいい女子だって、
 自分のクラスの選手を応援しないで、
 あっしを呼ぶんですよ。

 彼女の髪はサラサラと流れ落ち、
 うっすらと頬を染め、
 目はキラキラと輝き、
 一心不乱にあっしの名を呼んでるんです。

 そこで、あっしの足はますます速く、
 あっしの顔はますます、りりしくなっていくんですよ。

 あー、懐かしいな、もう!!

—(ジョルジュの孫)なーに、ぶつぶつ言ってんの?
 あなたのおめでたくも、どえらい勘違い、
 誰も聞いちゃいないんだけど。

 だいたい、あんた、必死に走ってて、
 なんであんたを呼んでるのが他のクラスの女子だって、
 わかるわけ? 
 しかも、内気でかわいくて、目がキラキラ、
 髪の毛がサラサラしてるって? 

 いつ見たのよ? 
 その声、誰かのイタズラじゃないの?
 あるいは、前もって、あんた、
 自分で吹き込んだテープを仕掛けといたとか??

—(村人A)なっ! あっしがもてて、何が悪いんですか!

—(ジョルジュの孫)いやあ、
 たで食う虫も好き好きっていうか……。

 まあ、いいわ。

 あのね、宣誓の経験があるのは、
 あなた一人じゃないわよ。
 春夏の甲子園でも、高校生球児の代表が毎回、毎回、
 誓っとるわい!

 問題はね、あなた、その昔、宣誓をした時に、
 一体誰に誓ったかってことよ。

 で、あなた、誰に誓ったのよ?

—(村人A)えー? いや、そのォ、強いて言えば、
 その場にいた先生たちかな?
 宣誓、先生に捧ぐ。なんちって。

—(ジョルジュの孫)あのね。。。

へるめす通信33

(へるめす通信、ものすごーくひさびさの再開です。ある人(村人A?)から、いつまで放っておくんだ、という突っ込みがあったため、数回、まとめてアップします。)


—(ジョルジュの孫)む! アタマにきたので、私帰る!
 サヨウナラ!

—(村人A)あっ、ちょ、ちょっとォ。
    うそですよ、う・そ!
  あーたが、このブログの大家(おおや)さんなんですよ。
    いったい、どこに帰るんですかー?
   
    ていうか、ヘルメスの宣誓の話、終わってないですよー。
  なんだって、こんなに長い間、放置してたんですかァ?

—(ジョルジュの孫)ぐっ!! ……わかったわよ。
  心の広いワタクシですもの。戻ってきてさし上げますわ!

—(村人A)よしよし。それじゃ、心の広いあーたに、
 最後にお尋ねしたいことがあるんですけどね。
 よろしいでしょうかね。

—(ジョルジュの孫)あらま、何でございましょう?
 長くなっちゃったから、手短にね。

—(村人A)あのですね。
 今まで言ってきたことが間違いじゃなければ、
 ここから現代人にとって重要な問題が出てきませんか?

—(ジョルジュの孫)え? 何、何? どういうこと?
 面白そう。もっと詳しく言って。

—(村人A)つまり、金田一一(きんだいち はじめ)君は
 いいんですよ。
 じっちゃんが神様なんだから。

 つまり、「じっちゃん教」の信者だってことに 
 なるわけでしょう?

 裁判所に行ったって、
 「オレは絶対、嘘をつかない。じっちゃんの名にかけて!」
 って宣誓すりゃぁいいんですから。

 だけど、現代の一般的な日本人はどうなるんですか。

 つまり、そのォ、正月に神社に行き、
 お盆の季節に墓参りし、
 葬式の時に坊さんに読経してもらい、
 クリスマスを祝ってケーキ食べてる、
 一般的な日本人は。

 つまりは、あっしがそうなんですけどね。
 そういう人は、裁判所でいったい何に誓うんですか?
 どんな神様に向かって宣誓してるんでしょうね。

—(ジョルジュの孫)うーん。確かにそれは問題ね。

—(村人A)でしょう? つまり、ホッブズによれば、
 宣誓で重要なことは、恐怖と崇拝の対象である
 「神」だってことですよね。

 だけど、それを信じていない現代の一般的な
 日本人はどうなるんです? 

 現代の日本人は、お稲荷様だって
 本気で信仰しちゃいないでしょ? 

 ましてや、「日本には世界に誇る
 八百万(やおよろず)の神々がいらっしゃる!」とか、

 「天照大御神(アマテラス・オオミカミ)が
 我々を見守って下さっている!!」
 って、きっぱり信じてるヤツも、ほとんどいないでしょ? 

—(ジョルジュの孫)……いるかもよ?

—(村人A)いや、つまりね、

 そういう細かい問題はさておいて。

 何が言いたいかというと、平均的日本人は誰に向かって
 宣誓するのかってことですよ。

 だって、あと少ししたら、裁判員制度も始まるんですよ。
 裁判員に選ばれた人は、誠実な判断を下すことを
 何に対して誓うんですか?

 あっしも選ばれた時には、どうしたらいいんです? 
 人事じゃないでしょ!!

2007/06/07

『神獣・モンスター』3刷、決定!

『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』、
3刷が決定しました!

6月初旬の梅雨に入ろうかという今日このごろ。
そういえば、昨年、私が旅行に行った鹿児島では、
すでに梅雨入りしているとのこと。

もうすぐ夏ですね。

私の住んでいる家の庭には、
紫やピンクのアジサイの花が咲き乱れています。

この色、どこかで見たような……、と思ったら、
そうそう、『神獣・モンスター』の表紙の色でした。
この本、アジサイ・カラーなのです。

ということで、今回は、季節感あふれるオチでした。

今後とも『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』、
ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。 m(__)m




(3)生物分類法の巻ー「中国」・『西遊記』ー

今回は、ちょっと複雑な動物の分類のお話。

中国の明(みん)の時代に完成した、ご存じ『西遊記』に、
面白い動物の分類が出ています。
少し読みづらいですが、まずは以下の文章をご一読ください。

まず五仙がある。すなわち天、地、神、人、鬼。
次に五虫がある。すなわち(ら)、鱗、毛、羽、
(『中国古典文学体系 西遊記(下)』太田辰夫・鳥居久靖訳、1972、平凡社、p80)

この引用の何が面白いかというと、私も初めて知ったのですが、
五虫の「虫」とは、動物の総称だということなのです。

ですから、五虫というのは、五種類の動物のこと。

では、その五種類の動物を、わかりやすく説明してみましょう。

まずはじめに、「臝虫(=裸虫)」とは?
それは、なんと人間のことなのです。

(つまり、私もあなたも裸虫(らちゅう)なのですね。
ラオチュウじゃありませんことよ。おほほ。)

そして、「鱗虫(りんちゅう)」とは、魚のこと。
「毛虫」とは、もじゃもじゃのケムシではなくて、獣のこと。
「羽虫」とは、ハムシではなくて、鳥のこと。
「昆虫」は、紛れもなく昆虫のこと。

ちなみに、『西遊記』の五虫には含まれていませんが、
「甲虫」という言葉もあります。
これは、カブトムシではなくて、亀のことです。

さて、『西遊記』の中では、
この五仙(天地神人鬼)と五虫(臝鱗毛羽昆)をあわせて、
「十類」と呼んでいます。
(『中国古典文学体系 西遊記(上)』太田辰夫・鳥居久靖訳、1972、平凡社、p32注一)

ところで、『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』を監修していた時に、『西遊記』のこの箇所について、以下のように言及している文献を見つけました。

「天地神人鬼」そして「鱗毛羽昆」というのは、『西遊記』に出ている十類、五仙、五虫と呼ばれる“生物の分類法”である。つまり、明の時代に行なわれていた生物の分け方だ。
   (實吉達郎「解題」『中国の鬼神ー天地神人鬼』新紀元社、2005年、p2)

この實吉氏の引用も、基本的には『中国古典文学体系』版の『西遊記』の分類にのっとっているのですが、違う箇所があります。

それは何かというと、實吉氏の五虫の項目に注目してください。
鱗毛羽昆」となっています。
『西遊記』の分類では「鱗毛羽昆」となっていました。

つまり、『西遊記』の人類をあらわす臝(ら)が抜けて、「甲」という項目になっているわけです。

(もちろん、『西遊記』の版本によっては、實吉氏が書いているように、「甲鱗毛羽昆」という記述があるのかもしれませんが。が、少なくとも、平凡社の『中国古典文学体系』版の『西遊記』では、そうはなっていませんでした。)

ところで、實吉氏はなぜここで「甲」という分類を入れてしまったのでしょうか。

確たる証拠はないのですが、おそらく中国古代の思想書である『淮南子(えなんじ)』の記載と関係しているのではないかと思われます。

『淮南子』には、動物の始祖として、次のようなものが挙がっています。

「バツ」(=人類の始祖)
「羽嘉(うか)」(=鳥類の始祖)
「毛犢(もうとく)」(=獣類の始祖)
「介鱗(かいりん)」(=魚類の始祖)
「介潭(かいたん)」(=亀類の始祖)
(『中国古典文学体系 淮南子・説苑(抄)』戸川芳郎・飯倉照平訳、平凡社、1974年、p56。ただし、バツは漢字表記ができませんので、カタカナにしてあります。)

つまり、實吉氏の「甲」はこの「淮南子」の亀類のことではないかと思われるのです。先ほども述べたように、「亀」は「甲虫」とも呼ばれています。

整理しますと、『淮南子』の亀類が、『西遊記』の中では「」と変化しているのです。そして、實吉氏の本の中では、人類(=臝(ら)が消えて、『淮南子』の亀類、すなわち」が復活し、「」と共に記載されているということなのです。

一覧表にまとめてみましたので、こちらのファイルをご覧下さい。
「gochu.pdf」をダウンロード

いやー、今回はややこしかったですね。

最後までおつきあいいただいた方、ありがとうございました。
では、また。

『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』の訂正一覧

◆初版での訂正は以下の通りです。

187頁のイラストのモンスター名「カイポラ」
→「カルブンコ」

2007/06/02

マンガ・アニメの現在

今日は、山口昌男先生とご一緒に、有楽町マリオン11階にある朝日ホールに出かけました。

Manga_1 国際日本文化研究センター開催のシンポジウムを聞きに行ったのです。

小松和彦先生からお誘いを受けた山口先生が、一緒に行こうと言ってくださったのでした。

テーマは「世界に広がる日本のポップカルチャー マンガ・アニメを中心として」。

実は、私自身、今、ある仕事の関係で、現代の日本のアニメを集中的に見ています。そこで、心ひそかに期待して参りました。

講演者は、マンガ・コラムニストの夏目房之介氏と、京都精華大学マンガ学部准教授のマット・ソーン氏でした。

ちなみに、夏目氏は、ご存じの方も多いと思いますが、夏目漱石のお孫さんです。

とくに興味深かったのは、マット・ソーン氏が話された現在のアメリカにおける日本のマンガの翻訳事情。

例えば、一時期のアメリカでは、手塚治虫の『鉄腕アトム』や『宇宙戦艦ヤマト』、さらには『Akira』や『となりのトトロ』などが人気を集めていたそうです。

が、それらのアニメの日本的なシーンは、カットされていたとのこと。

また、当初、翻訳マンガは、アメリカの若者に日本のマンガを読んでもらおうとして、アメリカ式に左から右へと読めるように、シーンを逆に変えていたということです。

日本のマンガは、セリフが縦書きのため、右から左に読むように描かれていますが、英語はその反対に左から右に文が書かれます。

その違いを克服しようとしたのですね。

なるほど。

ところが、『ポケモン(ポケットモンスター)』や『ドラゴンボール』、『美少女戦士セーラームーン』などのアニメが大ヒットします。

その頃になると、次第に、日本の原作通りにマンガを読みたいという、アメリカの読者が出てくるようになったということです。

そして、「日本」的な要素を隠さず、逆に強調したり、右から左へと進んでいくマンガが主流になったらしいのです。

そういえば、私が関係している東京大学の研究室に来ていた外国人研究員の方が、あるとき、『美少女戦士セーラームーン』を美学の見地から言及していました。

その時は、なんでセーラームーン? と思ったのですが、まさかアメリカで大ヒットしていたとは!

さらには、今まさに、日本のアニメはピークを過ぎようとしている、ということでした。

2000年の頃に比べると、現在、海外でのアニメ作品の販売数は、半分に減ってしまったらしいのです。代わりに、今、韓国アニメが輸出されているとのこと。

とすれば、『冬のソナタ』現象のように、日本にも、もうすぐ韓流アニメの全盛期が来るかもしれないですね。

ところで! 

講演会の後に討論があったのですが、日本のアニメ・マンガがアメリカやアジアで流行する理由について、討論者の意見が分かれたのです。

ちなみに、討論者は四人で、それぞれ中国、タイ、アメリカ、フランスのご出身。

それでどういうふうに意見が分かれたのかというと、アメリカやフランスといった西欧出身の討論者の方々は、日本のアニメ・マンガの普遍性を理由に挙げ、

中国やタイといったアジアの討論者は、日本の個別性・固有性(要するに日本らしさ)を理由に挙げていたのです。

これは簡単に片が付く問題ではありませんが、神話学的にも非常に興味をそそる問題だと思いました。

というのは、アニメやマンガと同じように、全世界的に流行している日本のRPGの背景には、ある神話体系が潜んでいるのですね。詳しくは言いませんけれども。

しかも、私が講談社の編集者の方に伺ったところ、マンガ家がストーリーに困ると、担当の編集者は神話を読めと言って勧めるらしいのです。

つまり、日本のアニメやマンガ、さらには今回のシンポジウムでは触れられていなかったRPGが、なぜ全世界的に流行したのか。

それを考察しようとすると、おそらく神話学の見地も必要になってくるだろうというのが、私の感想です。


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