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2009年2月の3件の記事

2009/02/28

君は中山ラビを知っているか!

先日、ザムザ阿佐ヶ谷にProject Nyx公演「星の王子さま」を見に行ってきました。

星の王子さまといっても、あのサン=テグジュペリの作品そのままの舞台化ではなく、寺山修司がサン=テグジュペリの物語を脚色したものです。

ところで、今日のブログの記事は、この戯曲の紹介ではありません。もちろん戯曲の内容も寺山節が炸裂していたのですが、それ以上に、劇中で登場した人々が興味深かったのです。

まず、ご紹介したいのは、劇に出演し演奏を担当した黒色すみれの2人。バイオリン奏者のさちさんとヴォーカルのゆかさんの奏でる不思議な世界に魅了されました。

観劇後数時間経っても、「永遠に麗しく、すみれの花よ」のなかのフレーズ「ラッ、タッタッター」が頭を離れなかったほどです。

それから、スペシャルゲストとして出演された、渚ようこ・フラワー・メグ・中山ラビといった皆さんもとても魅惑的でした。

特に、最後に登場しギターの弾き語りで、とても力強い音楽を奏でた中山ラビさんには、本当にビックリ。

フォークソング全盛時代を彷彿とさせるかのようなその演奏に、これはもしや! と思い帰ってから調べてみましたら、かなりその方面では有名な演奏者だったのですね。私はこれまで全く知りませんでした。嗚呼

YouTubeに複数の曲がアップロードされていたので、しばらく聞きまくりました。中でも私が気に入った曲は「念仏暮らし」です。 最初の方でメロディが急激に下がっていくところなんか、くぅ〜(*´ェ`*) 堪えられましぇん!

というわけで、今回は、私が知らなかった新世界を垣間見た舞台でした。

ちなみに、黒色すみれのお二方は、新宿で「すみれの天窓」、中山ラビさんは国分寺で「ほんやら洞」という喫茶店を経営なさっているようです。

2009/02/23

自己実現のための勉強法(7)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(2)

自己実現のための勉強法の7回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の2回めです。

前回、長期で知的仕事を遂行するには、自分の中に深い井戸を持て、しかも井戸は何本も持て、という、渡部昇一氏の意見を紹介しました。

自分の中の深い1本の井戸とは、自分の専門のこと。どんな分野であれ、誰にも負けない自分の専門を確立するのが、まず最初にやらなければならないことでした。

ただし、自分の専門という、たった1本の井戸の水をいつも汲み上げていると、いつか枯渇してしまうため、長期に、あるいは同時並行的に活躍することは難しい。

たとえば、私の場合で言えば、複数の執筆を抱えた状態を、何年も、何十年も維持していく、あるいはこれからしていこうとしているのに、一本の井戸の水では到底まかないきれない。

だから、自分の専門の井戸以外に、複数の井戸を持つよう、心がけた方がよいということになります。

実は、この渡部氏の助言は、私がこれまでに直接間接を問わず受けた助言の中でも、私がかなり影響を受けたものの一つなのです。勉強法などに関する渡部氏の著書を読むと、いつも私は、渡部氏があまりにも気前よく自分の勉強法を披露しているのに、心の底からびっくりし、また感心します。

これを教えたら誰かに秘訣を取られてしまうというような、物惜しみする姿勢が全く感じられないのです。もしかすると、「自分は秘訣をすべて曝した。やれるものならやってみろ」という自信の表れかもしれないのですが。

ちょっと脱線しますけれども、渡部氏のこういう惜しげもない助言を読むと、いつも私の中に、小林秀雄の次の言葉が思い浮かんでくるのです。

どんな助言も人に強いる権利はない。助言を実行するしないは聞く人の勝手だ。それよりも先ず大事なことは、助言というものは決して説明でない、分析ではない、いつも実行を勧誘しているものだと覚悟して聞くことだ。親身になって話しかけている時、親身になって聞く人が少ない。これはあらゆる名助言の常に出会う悲劇なのだ。
 なぜこんなことをくどくど書くかというと、——それは諸君が自ら反省し給え。諸君がどれほど沢山な自ら実行したことのない助言を既に知っているかを反省し給え。聞くだけ読むだけで実行しないから、諸君は既に平凡な助言には飽き飽きしているのではないのか。だからこそ何か新しい気の利いたやつが聞き度くてたまらないのじゃないか。(小林秀雄「作家志願者への助言」・以下の引用ではすべて歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに、旧漢字は新漢字に訂正してあります。)

いつ読んでも、小林秀雄は強烈ですね。ですが、本当にその通り。助言というのは実践しなければ意味がないし、しかも実践してはじめて、助言をしてくれた人が、いかにこちらの身になって話をしてくれているかがわかるのだと思います。

で、私の経験から述べれば、渡部氏の助言は、たしかに「親身になって話しかけている」助言だという気がします。

さて、話を、複数の井戸を、どのようにして自分の中に作っていくか、ということに戻します。それを言い換えると、いかにしてリソースフルな人物になれるかということになりますが、かつて私がこれはよいと思って取り入れ、今でも実践しようと努力している方法を、これからいくつか述べてみたいと思います。

(1)少なくとも一つの外国語を習得し、二本足で立てるようになる。

まず最初に、これについて参考になるのは、前回の記事にも挙げた渡部昇一氏の著書『発想法』に書かれている、渡部氏の恩師・佐藤順太氏の指摘です。

渡部氏は中学・高校時代、英語の先生として教えを受けた佐藤順太氏の家に遊びに行き、そこでつぶさに見た佐藤氏の知的生活から大きな影響を受けたということです。詳細は、とにかく渡部昇一氏があちこちで書いていますので、そちらを御覧いただければと思いますが、とにかく、渡部氏が私淑する佐藤順太氏によれば、「ずっと読んできた作家の書くものに、明らかに「書くことがなくなったな」と感ずる瞬間がある」らしい。

そして、そう思いながら、その小説家を見ていると、確かに彼は書かなくなる。それはなぜかというと、佐藤氏の観察によれば、その小説家は日本語の本しか読んでいないからだといいます。

つまり、日本語の本しか読んでいない作家は種が尽きるのが早く、外国語をマスターしている作家は種が尽きないようだ、というのです。

つまり、リソースフルな人物というのは、第一に、外国語を学び、外国語で書かれた本を読み、その中に書かれている知恵を吸収する人物ということになるわけです。

面白いことに、佐藤順太氏以外にも、外国語の習得を勧めている人物がいます。それは作家・菊池寛で、先に挙げた小林秀雄の文の中に、そのエピソードが登場します。そして、この菊池寛のアドバイスに対して、小林秀雄は全面的に賛成するのです。

だいぶ以前のことで、何んの雑誌だか忘れて了ったが、文学志願者への忠告文を求められて菊池寛氏がこう書いていた。これから小説でも書こうとする人々は、少なくとも一外国語を習得せよ、と。当時、私はこれを読んで、実に簡明的確な忠告だと感心したのを今でも忘れずにいる。こういう言葉をほんとうの助言というのだ。心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上必ず実益がある、そういう言葉を、ほんとうの助言というのである。」(小林秀雄「作家志願者への助言」)

小林秀雄は、文学志願者、作家志願者に対する助言として、この文章を記しているのですが、これは別に作家になろうと思っていない人にも十分通じる、有益な助言であろうと思われます。

これと同じようなことを記しているのが、大変有名ではありますけれども、森鷗外です。

鷗外は、 近代日本における知的生活者の最善の姿として、「二本足」で立つことを挙げているのです。少々長いのですが、考えさせられる文章なので、長さを厭わず引用してみたいと思います。

 私は日本の近世(=最近)の学者を一本足の学者と二本足の学者とに分ける、
 新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合って渦を巻いている国である、そこで東洋の文化に立脚している学者もある、西洋の文化に立脚している学者もある、どちらも一本足で立っている、
 一本足で立っていても、深く根を卸(おろ)した大木のようにその足に十分力が入っていて、推されても倒れないような人もある、そう云う人も、国学者や漢学者のような東洋学者であろうが西洋学者であろうが、有用の材であるには相違ない、
 併(しか)しそう云う一本足の学者の意見は偏頗(へんぱ)である、偏頗であるから、これを実際に施すとなると差支(さしつかえ)を生ずる、東洋学者に従えば、保守になり過ぎる、西洋学者に従えば、急激になる、現にある許多(きょた)の学問上の葛藤や衝突は此二要素が争っているのである、
 そこで時代は別に二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一本づつの足で踏まえて立っている学者を要求する、
 真に穏健な議論はそう云う人を待って始めて立てられる、そう云う人は現代に必要なる調和的要素である、(森鷗外「鼎軒先生」)

外国語を勉強し、外国語で本を読み、なおかつ日本語で書かれた本も読む。そうすれば、鷗外のいうところの「二本足」で立てる人物になれるかもしれない、ということになります。

2009/02/14

自己実現のための勉強法(6)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(1)

自己実現のための勉強法の6回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の1回めです。

さて、「自分自身のテーマ」というと、 大学研究者にとっての研究テーマというようなものが、思い浮かぶかもしれません。

もちろん、その話も出てくるのですが、私がここで述べてみたいのは、研究テーマにとどまらない、個々人の知的枠組や知的関心の広げ方についてです。

これについて、まずは、数年前のある飲み会で、ST大学のS先生がお話しされていた、若手研究者事情から始めてみたいと思います。

「今は、昔と違って、博士論文を取得することが絶対条件になりつつあるから、若手研究者は、とにかく博士論文を書くまでは必死に頑張る。

所属する場所によって、博士論文を執筆するための前提条件—たとえば、雑誌論文を3本、あるいは5本というようなもの—が課されているから、みんな、その3本なり、5本なりを必死で書き、その後、死にものぐるいで、それを博士論文にまとめる。

だけど、いったん博士号を取り、大学に就職してしまうと、いきなりぱたりと論文が出なくなるし、学会発表も少なくなくなる。

つまり、大学院生のうちは、すごく勉強するんだけど、やっと研究者としてのスタートラインに立った途端に研究しなくなるんだ。

こんなことでは日本人の研究は貧しくなる一方だ。」

私は、この言葉を聞いて、「うーん、……確かに」と思ってしまいました。

周囲を眺めてみても、みんな何に困っている(ように見える)かというと、大学院の修士から、中には卒論の時から、研究してきた研究テーマで博士論文を書き、書き終えた後、燃え尽きてしまったかのように、次のテーマが出てこないということ。あるいは、次のテーマに、その人の情熱を感じないということなのです。

これについて、 上記のS先生がおっしゃっていたのと同じ感想を、渡部昇一氏が『発想法 リソースフル人間のすすめ』の中で書いていますので、そちらも引用してみたいと思います。

(ちなみに、この本、私は講談社現代新書版で読みましたが、こちらは今、絶版。代わりに、PHPから復刊されているようです。)

ある学者がいた。すばらしい本を書いた。比喩は生き生きとして、情報は新鮮である。当然、そういう本は評判になる。すると別の本屋さんが自分のところでも出してくれと言ってくる。そこで旧稿をまとめたり、整理したりして出す。それはその本にくらべて新しいことがあまり加わっていない。読む側の受ける印象は「一本の井戸を汲みすぎたな」ということである。その学者が、読者に「読んでよかった」という読後感を与える本を書くために十分な「仕込み」、つまり研究や情報収集ができるまでには、数年、あるいは十年以上かかる。(そのため、その後、新しい研究が出ることなく)あるいはそれっきりになってしまう。こういう例は意外に多いものである。(渡部昇一『発想法 リソースフル人間のすすめ』講談社現代新書、p32-33。( )内は筆者補充)

つまりは、若い時に限らず、その人の全生涯を通じて、魅力ある研究や作品をいかに次々に、さらには同時並行的に出し続けるか、いかにヴィヴィッドな視点を持ち続けるか、それが問題だということになるわけです。

素晴らしい仕事をなしとげる瞬発力に加えて、息の長い活動をする持久力の両方が必要だと思いますし、これは今、私も切実に感じていることでもあります。

では、どうすればよいのか。つまり、たった一本の研究やたった一本の小説を書いただけで、リタイアせず、いかに長期にわたって活動ができるのかということです。これについても、渡部昇一氏が、先の本の中で述べていることが参考になると思います。

渡部氏は、先の本の副題にある「リソースフル人間」になりなさいと提唱しています。

リソースフル(resourceful)な人間とは、「どんな状況においてもアイディアが出てくる人」のこと。別の言い方をすれば、自分の中に「汲(く)めども尽きぬ知恵の泉」ないしは「井戸」を持ち、生涯にわたって活躍する人のことです。

そして、渡部氏は、リソースフル人間になるために、つまり、自分の内なる泉(ないしは井戸)を涸(か)らさないために、なすべきことは次の2つであると言います。

(1)まずは自分の内なる泉(ないしは井戸)を深く掘れ。
(2)泉(ないしは井戸)を何本も持て。

(1)は要するに、自分の専門とするところをしっかりと持て、ということでしょう。これならば誰にも負けない。どこに出かけていって誰と話しても、絶対に自分が一番よくわかっている。そういう分野を1つ確立せよ、ということです。

ところが、どんなに深く掘ったとしても、たった1本の井戸を頼りにしていると、必ず枯渇する時が来る。だから、他の井戸を何本も掘っておいて、1本目の井戸の水がなくなりそうになったら、第2の井戸から水を汲む。あるいは第3の井戸、第4の井戸から水を汲む。その間に、第1の井戸に水を溜めていくようにすれば、いつかその第1の井戸から再び水が汲めるようになるのだ。そう、渡部氏は述べています。

ならば、自分の専門とは異なる別の井戸をどのようにして掘っていくのか、ということですが、これについては次回以降、山口昌男先生の方法も交えて、お話しすることにします。

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