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2009年3月の5件の記事

2009/03/29

自己実現のための勉強法(9)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(4)

自己実現のための勉強法の9回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の4回めです。

前回は、長期かつ同時並行的に知的活動をするためには、リソースフルな人間にならなければならない。具体例として、古典学者の西郷信綱先生のエピソードをお話しながら、リソースフルな人間になるための近道として、最低1カ国語の外国語で本を読み、 二本足で立つ人物を目指すという話をしたわけです。

ところで、外国語を最低1カ国語マスターするといっても、マスターしようと努力しているうちに時間が過ぎていってしまう。下手をすると、外国語をマスターして何をしたいのか、その最終目的の方が薄れていって、外国語の習得のみが目的化してしまうということがままあるわけです。

あるいは、外国語の習得は自分の現在置かれている状況では、それほど必要ないという場合もあるかもしれません。

そうすると、自分の中の井戸を増やしていくには、外国語の習得以外の別の方法を模索する必要があるということになります。

そこで、今日は、

(2)自分の専門と異なるジャンルに触れる。

ということについて、述べてみたいと思います。これをもう少しかみ砕いた形で言い直しますと、

  • 自分が外国の事象に興味があるなら、日本に関するものをあえて読む。
  • 日本の事象に興味があるなら、外国に関するものを読む。
  • 現代の事象に興味があるなら、古典を読む。
  • 古典に興味があるなら、現代の最新の理論に目配せをする。
  • 大衆文化に興味があるなら、ハイカルチャー(上位文化)にも通底する。
  • メインカルチャーを研究しているなら、サブカルチャーにも目を通す。

というように、自分の専門と対極にあり、なおかつ自分の専門を相対化できるような知識を生み出してくれる。そういうジャンルの書物を読み、知性に触れ、少しずつ井戸を増やしていくということになるかと思います。

これを書いていて、ふと思い浮かんだことがあります。

いつだったか、ジュリアード音楽院(The Juilliard School)に通う学生たちのドキュメンタリーを見たことがありました。ジュリアードといえば、ご存じの通り、ピアニストの中村紘子さんやバイオリニストの五嶋みどりさん、チェリストのヨーヨー・マ、さらに調べていて驚いたのですが、歌手の安田祥子さんなどが通い、さらにはマリア・カラスが講師を務めた音楽の名門校ですが、そのジュリアードにジャズ科が設立され、ジャズ科の学生が、トランペットでクラシックを吹く授業を受けていた時のことです。

その学生は、なんとなくやる気がなさそうな感じでした。「ジャズを演奏する技術を磨くために入学したのに、クラシックを演奏させられるなんて……」といわんばかりだったのです。

すると、偶然、ジュリアードを尋ねてきていた卒業生、しかも彼は現在プロのジャズ・トランペット奏者なのですが、その彼が、いきなり、手に持っていた自分のトランペットで、クラシック(バッハ)を吹き出したのでした。そのジャズ奏者を尊敬していた学生は唖然とし、それから急に目の色が変わって、真剣になりました。バッハを吹き終わったプロのジャズ・トランペット奏者が言った一言は、「基礎が大切だ。基礎をしっかりと築くにはバッハが一番だ」というようなものだったと記憶しています。

私は、この場面を見たとき、アメリカの大衆文化/大衆芸術という激烈な競争の世界の中で、曲がりなりにも、ひとかどの人物になるためには、バッハのようなハイカルチャーの素養を身につけることが必要だし、それを身につけることが基礎力となるのだということを痛感したのでした。おそらく、活躍している人はみな、他人の目には見えないところで、多かれ少なかれ、このような努力を続けているに違いありません。そして、ジュリアードの学生が、身をもって、そのことを痛感したのだろうと思います。

よく言われていることですが、ダンスの世界で言えば、モダン・ダンスを十二分に踊るためには、クラシック・バレエの素養がある程度必要であるし、全く身につけていないならば、その必要性を痛感する時がいつか来るわけです。フィギュア・スケートの選手だって、表現力をつけるためにクラシック・バレエを習っています。絵画の世界でいえば、名画の模写がダンスの世界のクラシック・バレエに相当するでしょう。

とするならば、現代のアニメに興味があるなら、同時にエイゼンシュテインとかフェリーニ、ヴィスコンティ、小津安二郎といった監督の作品をも見ておく必要があるだろうし、能や歌舞伎を鑑賞することだって役立つだろうと思うのです。

そして、現在、活躍している人たちは、こんなふうに努力して、多かれ少なかれ、井戸を複数持つに至ったと思われます。

ちなみに、渡部昇一氏は井戸を多く有する作家として、故人ではありますが、松本清張を挙げています。現代小説に時代小説、現代の推理小説に江戸時代を舞台とした推理小説、ノンフィクションの現代史に古代史。これが松本清張が執筆してきたジャンルであり、同時に彼が勉強してきたジャンルであるわけです。そして、彼が執筆してきたジャンルの多さは、彼の井戸の多さの証明でもあります。

そういう視点で見てみると、現代の作家で言うなら、村上春樹氏は創作と翻訳の二刀流だし、宮部みゆき氏も現代ものと時代物(江戸もの)を書いています。活躍の秘訣は、井戸の多さにあるというのは、どうも本当のようです。

ところで、井戸を増やすという点から少々脱線しますけれども、実は、ヴァルター・ベンヤミンが、「ゲーテの『親和力』」の中で、同時代の中に存在するハイ・カルチャーと大衆文化を同時に取り上げ、刺激的な批評を行っています。

彼は、カントの『道徳の形而上学』(もしくは『人倫の形而上学』、1797年)の中の一節と、モーツァルトの『魔笛』を並べることによって、当時の婚姻に対する観念の様態を抽出してみせるわけです。その部分を引用してみたいと思います。

「性の共同性とは、人間が他者の性器および性能力を利用する、その相互作用を謂い、それは自然な利用(これによって同類をつくることができる)または不自然な利用であって、後者の場合は同性の人物、もしくは人間種族とは異なる種族の動物に対して行なわれる」。 

以上がカントである。『道徳の形而上学』のこの一節に、モーツァルト(1756-91年)の『魔笛』(1791年初演)を並べてみると、婚姻についてこの時代がもっていた最も極端で、同時に最も深い二様の見方が、そこに表わされているように思われる。というのも『魔笛』は、そもそもオペラというものに可能なかぎり、ほかならぬ婚姻関係にある愛をテーマとしているからである。(中略)

このオペラの内容をなしているのは、愛しあう者たちの恋しがる気持よりも、婚姻関係にある者たちの絆の揺るぎなさである。彼らに火のなか水のなかを通りぬけさせるのは、ただ互いに相手を得るためだけでなく、永久にひとつに結ばれてあるためなのだ。いかにフリーメイソンの精神が、すべての実際上の結びつきを解消させずにはいなかったとしても、ここに、婚姻というものの内実の予感が、貞節の感情において最も純粋な表現に達している

(ヴァルター・ベンヤミン「ゲーテの『親和力』『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫:p47-48。カントの引用部分は不必要な箇所を省いてあります。また適宜改行を施しました。)

カントにかかると、同性愛は「同性の人物に対して、その性器および性能力を不自然に利用すること」になりますし、獣姦は「人間種族とは異なる種族の動物に対して、その性器および性能力を不自然に利用すること」になるのですね。なんだか、笑いがこみ上げてくるおかしさがありますが、これこそハイカルチャー的物言いなのでしょう。

一方、今でこそ、モーツァルトの『魔笛』はハイカルチャーに位置していますが、18世紀当時の大衆文化の反映でもあったわけです(ブローフィ『劇作家モーツァルト』高橋・石井訳、東京創元社を参照)。それを、カントの著作と一緒に読むわけですから、まさにベンヤミンは、大衆文化とハイカルチャーを縦断している人物ということになるでしょう。

さらに興味深いことに、このベンヤミンの方法は、ベンヤミンの試みから示唆を受けたスラヴォイ・ジジェクの文化批評によっても、実践されているのですが、ジジェクは先のベンヤミンの引用部分を、次のように、わかりやすく言い換えてくれています。

かつてヴァルター・ベンヤミンは、生産的でしかも価値転倒的(サブヴァーシヴ)な理論的作業として、ある文化が生んだ最も高次元な精神的所産を、その同じ文化が生んだ平凡で散文的で通俗的な産物といっしょに読むことを推奨した。ベンヤミンがとくに念頭においていたのは、モーツァルトの『魔笛』に表現されている、愛し合う男女についての崇高な理想を、モーツァルトの同時代人であるイマヌエル・カントの著作に見出される結婚の定義といっしょに読むということだった。(スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳、青土社:p7)

要は、井戸をたくさん持つこと。しかもその井戸がそれぞれ異なる性質を持っていると、 それら複数の井戸を融合させたヴィヴィッドな仕事を創出することもできるのです。 これがベンヤミンの試みであり、ベンヤミンからジジェクが抽出したものなのです。

これはたいへんな力業(ちからわざ)であり、蓄積までの時間もかかりますが、誰にも真似のできないオリジナルな成果が生まれることは間違いないと思います。

2009/03/24

娘十六ジャズ祭り(1954)

「タイトルに騙されてはいけない! 思いの外、感動する映画」。これが、この映画の感想です。

「娘十六ジャズ祭り」、私は、2009年1月31日から4月3日まで開催されている、新東宝の60作品を見る企画「新東宝大全集」(於:シネマート六本木)の中で見ました。

この映画は、戦後日本で流行ったジャズ・ブームを映像化したものです。新東宝は、日本のジャズ・ブームを、まず「青春ジャズ娘」(1953年)という映画の中で表現し、第二弾として「娘十六ジャズ祭り」をおくり出したのです。

(しかし、ジャズ・ブームとはいうものの、映画を見てみると、ラテン音楽もシャンソンも、「ジャズ」として扱われているのは興味深かったです。)

ところで、なぜこんな地味なタイトルの映画をわざわざ見に行ったのかというと、この「娘十六ジャズ祭り」という映画を、私は、自分の論文「壊れた世界と秘匿され た〝自然〟」(『思想』1013号)の中でちらっと触れているからなのです。

昭和29(1954)年に勃発した労働争議の最中に、近江絹糸(おうみけんし)の「女工」さんたちが、この「娘十六ジャズ祭り」という映画を好んで見ていたということがわかっています。そこで、私は、当時の「女工」さんたちがどんな映画を好んでいたか知るために、六本木まで見に出かけたというわけなのです。

さて、物語の主人公は、雪村いづみさん演じる孤児の「みゆき」。母親を亡くして東京に出てきた「みゆき」が、行くところがなくて困っていたところ、偶然出会ったジャズ・バンドのメンバー4人に拾われます。

この4人、「みゆき」と同じく浮浪児だったのですけれども、古川ロッパ演じる二宮に拾ってもらって大きくなり、現在の地位を得たという過去を持っていました。二宮は、かつては名だたる音楽家だったのですが、今は古びたアパートの2階で、細々と暮らしています。

この二宮に、4人は、孤児の「みゆき」をひきあわせます。すると、二宮はお金がないにもかかわらず「みゆき」をひきとり、彼女を自分の弟が経営する学校にまで通わせるのです。

二宮を実の父のように思い始めていた矢先、「みゆき」は本当の父親に出会い、しかもデビューのチャンスにまで恵まれます。そして、「みゆき」やジャズ・バンドのメンバーが出演する新春のジャズ祭りの舞台が始まります。

けれども、二宮は自分が世話をした子供たちが活躍する中で、一人だけ自分がすでに忘れられた音楽家だという寂寥感を覚えるのです。

物語のあらすじはこのようなものなのですが、なんといっても、この映画で感動するのは、一番最後に出てくる二宮役の古川ロッパのスピーチ。

正直に言うと、見る前はそれほど(というより、全く)期待していなかったのですが、古川ロッパのスピーチがもたらした感動は、観客に、今、見ているのが映画だということすら忘れさせるものでした。映画終了後には、会場から拍手がおこったほど。冒頭にも書いたように、はっきり言って、すごくいい映画でした

ということで、御覧になってみてください。

2009/03/22

第3回能楽事始のお知らせ

学生のための特別公演「能楽事始」の第3回公演が決まったようです。

日時は6月16日(火)18:00〜、場所は国立能楽堂です。

能楽事始のホームページはこちら。チケットの発売は4月1日(水)からとのことです。

ご興味のある方はどうぞ。

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2009/03/03

『新潮』4月号に、エッセイが載ります

20094 月刊新潮編集部の松倉(富崎)裕子さんよりお話をいただき、3月7日(土)発売の雑誌『新潮』4月号の「新潮欄」に、エッセイを寄稿しています。

エッセイのタイトルは「朝蜘蛛」。

よろしかったら、御覧になっていただけると嬉しいです。

また、『「世界の神々」がよくわかる本』(PHP文庫)も38刷になりました。

エッセイとあわせて、お知らせいたします。

自己実現のための勉強法(8)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(3) 西郷信綱の場合

自己実現のための勉強法の8回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の3回めです。

前回、最低でも一カ国語、できれば複数の外国語を取得することが、リソースフルな人間になる近道であるということを書きました。

森鷗外は、外国語を習得し、 東洋と西洋の文化を一本ずつの足で立っている人物のことを、「二本足」で立つ人物と評したわけですが、この二本足の人物は、リソースフル人間になるだけでなく、視野狭窄を免れたバランス感覚に満ちた人間であるということになります。

さて、こういうふうに述べてくると、「ああ、あの人も二本足だ」、「この人も二本足だ」と、思い浮かぶ人物はたくさんいるのですが、とくに私が二本足の学者だと思うのは、実は、平成20年9月にお亡くなりになった古典学者の西郷信綱先生なのです。

私が西郷先生のご自宅に伺った時のこと。西郷先生は、次の仕事として、以前から気になっていた平家物語に取り組もうとしているのだと話されました。これは著書としてはまとまらずに、結局お亡くなりになられたのですが、かなり強い情熱を傾けていらしたようです。

で、西郷先生は、『平家物語』の話になった時、私に、外国人研究者が書いた一冊の英書を示し、「平家の研究をするには、この本を読まなければならないんだけれども、日本の平家研究家は、ある人を除いて、ほとんどといっていいほど、この本を無視している。これは必読文献だ」と言われました。

それを伺った時、私はまさに、鷗外の言う二本足の学者を目の当たりにしているという感覚を持ちました。

ところで、その時、私は西郷先生と初対面だったのですが、実は以前から西郷先生の著作を読んでいました。そして私は、先生が日本文学者には珍しく、洋書を読まれていることを知ってはいたのです。

たとえば、昔、西郷先生の著書を読んでいた時のことですが、先生がフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を、邦訳が出るかなり前に英訳で読まれているのを知って、口幅ったいことを言うようですが、たいへん驚き、たいへん感心したことを覚えています。

というのも、私の知る限り、日本文学者で、現象学を取り入れようとする学者はたいへん少なく、しかも、それを外国の日本文学者の論文や現象学の解説書からでなく、直接フッサールやメルロ・ポンティを読んで吸収しようという学者はごくわずかだったからです。

そして、平家物語の研究に関する洋書を示された時、私は、一瞬にして、西郷先生が現象学といった研究上の方法論のみならず、平家物語に関する洋書の研究書(それは驚くことに、ご自分の専門ではない!)を読み、なおかつ、ドッズの『ギリシァ人と非理性』といった古代ギリシア関係の本も英書で読み、文学批評の最新理論の書籍も英書で読み、……といった状況に思い至って目が眩み、なんというか、西郷先生の底の深さを痛感したという次第なのです。

ちなみに、話はすこし飛びますが、山口昌男先生という方は、人物の「一言批評」に長けているのですが、その山口先生が唯一、「柔軟だ」と批評したのが西郷先生。

鷗外が一本足の人物は「偏頗(へんぱ)」であり、二本足の人物は、調和的、つまりバランス感覚に優れていると言ったことを連想させて、たいへん面白く、的確な人物評だと思います。

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