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2009年5月の5件の記事

2009/05/31

『大航海』よ、お前もか!

二週間ほど前、『國文學』の休刊について書いたばかりなのに、今度は、『大航海』(新書館)が6月5日号で休刊になるというニュースです。

『大航海』といえば、『現代思想』(青土社)の編集長として名を馳せ、その後評論家としても活躍している三浦雅士氏が、青土社を辞めた後に編集に携わっている季刊誌です。そして、この手の雑誌の中では、20世紀後半の活発だった現代思想の余韻を今なお伝え続けていたはず。毎号の表紙も凝ったデザインで、私としては気に入っていたのですが、やっぱりダメだったのですね

思うに、リアリズム小説に対してジョージ・スタイナーが述べた言葉が、今度は思想や批評についても当てはまる事態となったということなのでしょう。

「『現実』が小説に打ち勝ち、小説家は報告者になりさがってしまった。」『トルストイかドストエフスキーか』白水社1968)

つまり、株価の変動の理由をニュースで後から報告しているのと同じで、思想家や批評家・学者は、出来事が起こった後で、その出来事を、自分たちが依拠している様々な理論によって辛うじて説明を試みているだけだということなのです。

これでは、日々の出来事が、インターネットをはじめとする様々なメディアで瞬時に伝えられ、常に新しい状況が展開されつつある世界の中にあって、個々の出来事の思想的な意味づけを主眼とする雑誌の力は衰えるしかありません。

しかも、出来事を解釈する理論自体に目新しさがないわけですから、出来事の新しさの迫力の前では、1ヶ月あるいはそれ以上遅れて出版される雑誌の影響力など、風前の灯火。なんといっても、インターネットを見さえすれば、数分単位で情報が更新されるわけですから。

ところで、この5月の最終週、私はインターネットを通じて、BRITAIN'S GOT TALENT(音が出る事がありますのでご注意!)という、6日間におよぶイギリスで放映された番組のコンテストを見ておりました。ええ、もう寝不足でございます。

この番組、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、3年前には、ポール・ポッツ(Paul Potts)という名前のテノール歌手を見出した番組です。そして今年は、スーザン・ボイル(Susan Boyle)という名前の、スコットランドのとある村の出身の48歳の女性が華々しくデビューしたことで有名になりました。

この番組の影響力は超強力で、なんとYouTubeでの総閲覧数が、スーザン・ボイルさんの予選通過の模様を伝える動画だけで、3億回に近いとのこと。しかも、ファイナルステージの優勝者には、日本円にして1500万円相当の賞金と、エリザベス女王の前で演技をお披露目できるという特典がついています。今回の優勝者は、その約3億回閲覧されたスーザン・ボイルさんではなく、ダイヴァーシティ(Diversity)というダンスグループでした。

私のお気に入りは、スタブロス・フラットリー(Stavros Flatley)という親子のコメディ・ダンサーとシャヒーン・ジャファゴリ(Shaheen Jafargholi)という名前の12歳のシンガーです。

是非是非、その実力の程をYouTubeでご覧下さい。片や何とも言えない笑いがこみ上げてくるダンス。彼らのダンスは癖になり伝染します。そして片やマイケル・ジャクソンに優るとも劣らない歌唱力です。このシャヒーン君ですが、デイリーメイルによれば、彼には既にディズニーも目を付け、その実力を買ったとのこと。

さて、この番組、イギリスで放送されて大体30分ぐらいすると、インターネットでも映像のクリップが配信されるのです。ですから、日本にいながらにして、番組を時間差で楽しめるわけです。

加えて、番組の配信と同時にThe Sunをはじめとする様々な新聞(例えば、The Daily MailTelegraphなど)がこの番組を話題に取り上げるので、いろいろな事実に関する暴露情報を同時に得ることができるのです。

関係ないですが、今回、この番組を見ながら、はじめてThe Sunを読んでみたのです。なるほど、この手の話題、対象となっている人物を知って読むと、この新聞ほど面白いものはないような気がしました。あまりにパンチの効いた皮肉に、思わずゲラゲラ笑ってしまったほど。

閑話休題。

というわけで、即時性に関しては、<新しい出来事>の圧倒的な衝撃に、批評が負けてしまうことは確かなようです。批評が出来事を意味づける前に、さらなる新しい出来事の情報が伝達されるので、批評が干からびてしまったように感じられるからなのだと思います。

しかし、先ほどのスタイナーが言っているのですが、批評には、「われわれがもたらした判断の変化が、絶対正しいものでもなければ、いつまでも永続きするものでもないということを」『言語と沈黙 上』せりか書房1969自覚させる力があります。

そしてそれに加えて、私が考えるに、自分たちの世界の現在のあり方が、どのようなものであるのかという事を認識させ、新たな世界を切り開いてくれる機能もあります。

人文学を研究する魅力もそこにあるのだと、例えば、古典研究の名著、エリック・A・ハヴロックの『プラトン序説』(新書館1997)などを読むと理解できるのですが、いずれにせよ、インターネット時代における批評のあり方を、本格的に考えなければならない時期に到達したのだと思うのです。

2009/05/18

『國文學』休刊と教養の喪失について

ブログのアクセス解析を見ていると、このブログも様々なキーワードで検索されている事が解ります。その中でも時折、なんでこんなキーワードでウチに来るのかと首をかしげてしまう言葉に、「ブラジャー・フェチ」や「ハイヒール・フェチ」があります。

不思議に思って、過去に書いた記事を見てみたら、神話学の手帖(へるめす通信)のコーナーで、以前にフェティシズムについて書いたことがあったからでした。

でもきっとやってきた人は、全く違うものを目指して、このブログに辿り着いたんだと思うと。。。

期待したものでなくて、m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン

それから、「あーた、どうみても、レポートのための検索ね!」とついつい断言してしまうような検索ワードもあります。

ところで、当ブログにやってきた5月17日のキーワード一覧を見ていたら、「国文学 休刊」というものがありました。

なぬっ

と思って調べてみると、なんとあの日本文学研究を志した者ならば、一度は手に取った事があるはずの、學燈社の『國文學』が休刊になるというニュースが流れていたのです。

しかも、『國文學』だけでなく、受験の時にお世話になった人もいるはずの『學燈』も休刊とのこと。

そう言えば、この3月に『英語青年』も休刊になったばかり。

ですから、正直に言って、「うーん、そうか、やっぱり」という感じです。

そうそう、数ヶ月前に東京堂書店と紀伊國屋書店に行った時に気づいたのですが、日本文学の研究書の棚が、かなり縮小されていました。

とくに東京堂では、古代から近世までの研究書のコーナーが書棚一つになっていたので、もしかして、「日本文学は人気がないのか」とその時、痛感したのでした。

ところで、この休刊の背景を考えてみると、現代の若者が伝統的な教養を重視しなくなってきた文化状況が反映されているのかもしれない、と思ったりもするのです。

というのは、私の非常勤先の教え子で、ここ数年、日本文学(しかも古典研究)に進んだ学部学生が数人いるのですが、彼らや彼女らが読んでいる主な作品が、ライトノベル系列の本だという事を知って衝撃を受けたことがあったからです。

彼らは、古典とはいわないまでも、漱石・鷗外・芥川といった著名な作家が書いた文学作品や、それ以前の時代の書物を読む必要を感じていないようなのです。

そう言えば、以前、民俗学の研究職を志望していた学生がいたのですが、その理由を聞いたところ、ライトノベルやアニメの「もののけ」に興味を持ったからというものでした。

そして、学生が日本の文学作品の、中でも特に古典的な地位にあるものを軽視する状況は、海外の文学作品でも同じです。

たとえば、トルストイやドストエフスキーといった、一昔前なら、「やっぱり読んでおかないと恥ずかしいよね」と感じたであろう作品を気にも留めていないし、その事について、まずいとも思っていないようです。

昔、よく言われていたのは、日本の知識人の欧米崇拝。つまり、欧米の知識を重視する傾向が批判されていたわけですが、今は欧米の知識でさえ、吸収しなくちゃならないというような切迫感がなくなってしまっているのです。

ところで、アラン・ブルームが『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)でアメリカの伝統的な教養の喪失と相対主義の問題等を論じたのは、1987年のことでした。その中から私が感じた問題と関連のある節を2つほど引用してみます。

いずれにせよ、また原因が何であるにしても、いまの学生は読書の習慣と趣味を失っている。彼らは本の読み方も知らなければ、読書から精神の悦楽や向上を期待することもない。文化を気取ることがなく、高級文化(ハイカルチャー)に対する形だけの偽善的な脱帽など拒絶する点で、彼らは「自己に誠実」であり、一世代前の大学生と対照をなしている(p57、下線部筆者。)

大学教授がこれは絶対に確実だと言えることがひとつある。大学に入ってくるほとんどすべての学生は、真理は相対的だと信じていること、あるいはそう信じて いる、と言うこと。もしこの信念が正しいかどうかには検証の余地がある、という異論がでた場合、学生の反応は予期に違わないものである。すなわち、学生は 異論を理解しようとしないだろう。誰かが真理は相対的なりという命題を自明ではない、と見なしでもしようものなら、あたかも2+2=4に疑問を差しはさま れているかのように、学生は驚く。(P17)

日本も20年遅れで、価値相対主義の常態化に加え、社会的な会話を成立させる教養の、本格的かつ根底的な破壊状況に直面しており、しかも最終局面に到達しつつあるということでしょうか。

もちろん、インターネットによるコミュニケーションが、この状況の進展を加速化させていることは間違いありません。

また、ブルームが「彼らが『自己に誠実』」といっている点も非常に気になる点で、これは、現代日本における価値相対主義の浸透や、村上春樹氏の著作が、世代を超えて10代の若者にも広範に受容されている現状などと密接に関連しており、そしてもちろん、この「自己に誠実」という文言の内容が問われるべき問題なのですが、これらについては、現在計画中の著作の中で考察する予定でいます。

2009/05/17

自己実現のための勉強法(12)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(7)

自己実現のための勉強法の12回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の7回めです。

前々回から、自分の専門と異なるジャンルに触れながら、自分の中の井戸を何本も形成してきた人物として、山口昌男先生を取り上げています。前々回は先生が大量の書籍を購入しているという話、前回はこれだと思う著者の本は全て集めるという話をしました。

今回も引き続き、山口先生の井戸の多さの話、今回はとくにサブカルチャーに関するものになろうかと思います。

いつのことだったか、私と先生とで連れだって、映画の試写会に行った時のことです。その時は、まだ私は先生と連れだって、あちこちに行くようになってから間がない頃だったので、先生のなさることの何もかもが新鮮で、しかもどういうことをするのか、皆目検討がつかないという状態でした。

その時、JR線に乗ろうとして二人で改札を抜け、ホームに向かっていたのですが、足がだいぶ悪くなられていたため、先生は杖をつきながら、二人でゆっくりゆっくり歩いていたのです。ところが、先生はJRの構内にあるキヨスクの手前で、突然立ち止まり、私に向かって、「あそこにある新聞、買ってきて」と言ったのです。

(山口昌男先生のことだから、もしかして英字新聞か?!)と思った私は、「Japan Times ですか?」と先生に尋ねました。すると、先生は私の問いかけに答えず、一人で杖をつきながら前に進み、「これ!」と指さしたのです。

そこにあったのは、まんまるお目々のワンちゃん(いや猫だったかも?)のイラストもかわゆい、『ビッグコミック・オリジナル』。。。

「いや、先生、それは新聞ではありませんが。。」という呟きは私の口から出ることなく、私は先生から預かった300円で、その雑誌を買い、かばんの中にしまったのでした。

さて、本題はその後。やってきた電車に乗ると、電車の中は混んでいて、座席は満席、ちらほら立っている人もいます。ですが、車両の一番端の3人くらい座れる席に座っていた老紳士が、杖をついている山口先生に、親切に席を譲ってくださいました。

「いや、ありがとう」と先生。「ありがとうございます」と私。いえいえ、とばかりに横に首を振る優しげな老紳士。彼は、電車の入り口付近の金属製の手すりで囲われた小さなスペースのところに、もたれかかりました。

空いた席に、「どっこいしょっ」とすわった先生は、目の前で立っている私に向かって、こうおっしゃいました。以下、先生と私の会話。

山口 「ほれ、あれ」。

私   「へ?」

山口 「ほれ、今買ったやつ」。

私   「え? あのー、今買った、雑誌、のことですか?」。

山口 「そうそう、それ、それ。それ、頂戴」。

私   「あ、はい」

そこで、肩から下げているかばんから、買ったばっかりの「ビッグコミック・オリジナル」を取り出し、先生に手渡した私。すぐさま、1ページめから貪るように読み出す先生。その目は、ふだん見たこともないほど輝いています。

(普段の先生は、何かを考えながらモノを見たり読んだりしているようで、目が真剣なのですが、漫画を読んでいるときは本当に楽しそう。この楽しそうな目つきを私が見たのは、お孫さんへのおみやげのおもちゃを買っている時くらいでしょうか。)

で、ふと視線を感じた私が、姿勢をおこして、辺りをみまわしてみると、さきほど席を譲ってくださった老紳士が、漫画を読み出した先生を見て、露骨に眉をひそめているのです。

「気の毒だと思って、せっかく自分が席を譲ってやったのに、いきなり漫画を読みやがって……」というようなところでしょうか。すごく不機嫌そうなのです。

「すみません、この人、ただの漫画好きのおじいちゃん、ってわけじゃないんです。あの山口昌男なんです。わかっていただけないと思いますけど、許してください」と私。もちろん、心の中で秘かにつぶやきました。

でも、老紳士の批判的な目線の意味するところもわかるなあ、と私は思ったのです。

たしかに学生や若いサラリーマンが電車の中でコミック雑誌を読んでいる姿はしばしば目にします。けれども、今、目の前で、「ビッグコミック・オリジナル」を読んでいるのは、75歳を過ぎた、れっきとした白髪の老人。しかも、その目はきらきらとして、早く先が知りたくて知りたくてウズウズしているのは、誰の目にも明らか。

そして、ここがポイントなのですが、「えっ、漫画なんか読むの?」とでも言いたげな眼光鋭い老紳士と同世代であるわけです!

つまり、老紳士が言いたいのは、本当だったら、電車で漫画を読む若者を注意すべき年齢でありながら、いっしょになって漫画を読むとは何事だということなのでしょう。

今でこそ、漫画が好きですとか、漫画を研究しています、などと大手を振って言えるようになりましたが、山口先生の世代はまだ漫画を研究対象とすることには偏見を持つ人が多かったと思います。

もちろん、忘れてはならないのは、山口先生が読んでいるのは漫画だけでなく、同時に専門書も読んでいるということなのですが、私が見ていて感じたのは、本当に山口先生はアバンギャルドな人だということ。知的な面において、常に攻めの姿勢を忘れないということ。これにはたいへん感心します。

ちなみに、山口先生は、電車に乗っている時には、必ず何か本を読んでいました。今回の場合は、コミック雑誌ですが、古本目録であることも多かったです。時間活用術として、見習う必要があると思います。

2009/05/10

自己実現のための勉強法(11)―「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」編(6)

自己実現のための勉強法の11回め。今回は、「自分自身のテーマあるいは視野の広げ方」の6回めです。

前回は、自分の専門と異なるジャンルに触れ、自分の中の井戸をたくさん持つ事例として、山口昌男先生を取り上げ、とくにその本の買い方について、量の側面からお話ししました。

自分の中の井戸に水を満たすためには、せっせと情報収集に努めなければならないわけですが、そうすると、持っている井戸の数に応じて、読まなければならない書籍の数も増えていくことになるわけです。つまり、その人が持っている書籍の数は、ある意味で、自分の井戸の数のバロメータにもなるわけです。

ですから、山口先生が買って持っている書籍の多さというのは、先生の井戸の多さを示しているといえるわけです。

さて、今回のトピックは、山口先生が買っている本の質の面(つまり、先生の井戸はどういう性質を持っているのか)についてです。

私が一番驚いたのは、山口先生は一度「この人の書くものは面白い!」と思ったら、その人の書いたものをとにかく収集しまくる、ということです。

けれども、これだけだと、私が何に驚いたか、ピンとこないと思いますので、あるエピソードを御紹介しましょう。

ある時、私が山口邸を訪れていたときのこと。先生がこの前、東京堂から買ってきたという新刊書が、居間のテーブルの上に積み上がっておりました。先生と雑談しながら、私は新刊書を一冊ずつ手にとって見ていたのです。

すると、ちょうど私にコーヒーを出してくださっていた奥様が、私の手元を見て、「あら?」と言うではありませんか。

不思議に思って、自分が持っている本のタイトルをじっくり眺めてみると、それは次の本だったのです。

鷲田小彌太・広瀬誠『論文レポートはどう書くか―テーマの決め方から文章上手になるコツまで』日本実業出版社

奥様はそれを見て、
「お父さん(=山口先生のこと)、なんで論文の書き方なんか、買ってるの? もう一度、論文の書き方を勉強するの?」
とおっしゃるのです。

「ええーっ!! 必要ないでしょう、先生!」と心の中で叫んだ私。奥様の言葉を聞いて心底驚いたのですが、先生がおっしゃった言葉を聞いて、二度びっくり。

「いや、彼(=鷲田小彌太氏)の本を集めてるんだ」。

要するに、ある人の仕事が面白いと思うならば、子供向けに書かれていようと、学生向けに書かれていようと、共著であろうと、本の性格を問わず、その人の書いたものを全て集める。おそらく、それは、書籍の形になっているものだけでなくて、大学紀要に書かれた論文も、別の人が書いた文庫本の後ろについている短い解説であっても、別の人の単行本の帯についている短い推薦文でさえも、その人が書いたものであるなら、問答無用で収集するということなのでしょう。

75歳を過ぎ、100冊以上もの本を世に送り出している山口昌男先生が、論文の書き方の本を買っているのを見て、私は、この情報収集力は本当にすごいと感服したのでした。

そして、私は、おそらく山口先生は、ご自分の著作に必要なデータもこの持続的な収集力によっているのだということに思い至り、なんというか、「先生の仕事は信じられる」というような感慨を持ったのです。

なぜなら、ここまで徹底して情報収集をした後で、情報を取捨選択して、本当に必要な情報だけを自分の著書に投入しているわけで、調査不十分のまま、ありあわせの情報だけで本を書いているのではないということになるからです。

インターネットが発達し、コピー&ペーストでレポートができてしまうこの時代、山口先生の情報収集の仕方は古いのかもしれません。ですが、こだわりの著者を持ち、その仕事を追っていくという地道な作業は、その著者を通じて自分の知らなかった世界を知るという点においても、必要なことなのだと思います。

*本文とは関係ありませんが、私自身、これまで大学で教えてきて、学生のコピー&ペーストによるレポートで随分がっかりしてきました。当初は、このレポートはなかなか面白い、あの学生は優秀だと思っていても、ネットで調べてみると、あるホームページの写しだったということが多々あったのです。

レポートがコピー&ペーストによって書かれていると気づいた年は、提出されたウン百枚のレポート全てに対して、ネット上で検索を行い、コピー&ペーストによって書かれたレポートかどうかの判定を行ったこともありました。

その作業で疲れ果てた私は、その後、不本意ながらレポートはすっかり止め、代わりにテストを行うようになりました。学生の素の実力を知るには、それしかないと考えての措置なのですが、非常に残念な事態です。

何十枚ものレポートでなくても、ほんの少しの文章(たとえば、誰の本が面白いとか、誰の何の曲がよいというような感想程度のもの)を書くのでも、インターネット上の誰かの見解を参考にしなければ書けない学生もいます。そうすると、これは知の形成という点で、これからますます大きな問題となっていくと思います。

さて話を元に戻しますが、山口先生流の知の収集方法は、『遊星群』でその蒐書家(しゅうしょか)としての力量を窺い知ることのできる、書誌学の権威・谷沢永一氏によっても推奨されています。引用してみましょう。

(前略)自分のひいきの作者、ライターを持つことである。どの領域でも良いし、誰でも良い—松本清張でも、吉行淳之介でも、長谷川慶太郎でもいいが、その人物の全著作を、別に読まなくても良い、集めることで、自分の手許にひいき力士を抱えているような、一つの知的な、余裕のある楽しみを持つことが必要であると思う。

男のいちばんの道楽は、横綱に肩入れすることだといわれる。有望な力士を幕下のころから後援する。そしてその力士が横綱になったときに、たとえば「おい、今晩はこの座敷に北の湖を呼ぼうではないか」そこで北の湖が本当にやってくれば、男としてこれほど豪華な遊びはなかろう。東京一の名妓を呼ぶなどの比ではない。つまりそこにタニマチの醍醐味がある。

とするならば、われわれは自分のささやかな家に一人のひいき作者の書物の一群を蓄えることによって、私はこれをひいきにしているのだという余裕、あるいはゆるやかな気持の楽しみをもつことができるはずである。(谷沢永一『論より証拠 谷沢永一の読書術』潮出版社:p27-28)

もし、世に出たばかりの著者に目をつけ、その著者が徐々に有名になっていったとしたなら、自分の眼力が正しかったことになります。そういう醍醐味もあると、谷沢氏は述べているわけです。

2009/05/01

展覧会 Cosmic Fusion のお知らせ

Nagano 展覧会 Cosmic Fusion のお知らせです。『「世界の神々」がよくわかる本』(PHP文庫)の表紙を担当してくださったイラストレーター・長野剛(ながの つよし)さんの作品が見られます。

(↑こちらは、いただいた案内状の中から長野さんの作品だけをピックアップしたもの。)

今回は長野さん他、65名の方の作品が展示されている、大規模な展覧会のようです。

私がいただいたチラシの全容はこちらから見られます。ご興味のある方はどうぞ。

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