漱石の無知!?
俳人・正岡子規の文章の中に、漱石に関する興味深い記述を見つけました。
子規が書いているのは、漱石が、常識的に当然知っていると思われることを知らなかったので、びっくりしたという思い出です。私もこれを読んで、「え? あの漱石が?」と驚きました。それはどういうことかというと、……。
余(=子規)が漱石と共に高等中学に居た頃、漱石の内(うち)をおとずれた。
漱石の内は牛込(うしごめ)の喜久井町(きくいちょう)で、田甫(たんぼ)からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。
余は漱石と二人、田甫を散歩して早稲田から関口(せきぐち)の方へいたが、大方六月頃の事であったろう、そこらの水田に植えられたばかりの稲がそよいでいるのは誠に善い心持であった。
この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生(へいぜい)喰う所の米は、この苗の実である事を知らなかったという事である。(『ちくま日本文学全集 正岡子規』筑摩書房。適宜、読点とルビ、改行を施した。)
なんと、漱石、米がどこから採取されるか、知らなかったんですね。しかも、それをいつも目撃していたはずなのに。
おもしろいことに、漱石の場合は米だったわけですが、子規は、「タケノコは知っている、竹も知っている、けれども、タケノコが竹になるのは知らなかった」という40歳くらいの東京の女性についても書いています。これを読んだら、私も、幼い時に、あの柔らかなタケノコが、バリバリの固い竹になると知って、変な気分になったことを思い出しました。
さて、こういうこと(見る人から見れば「常識」的なこと)を知らないと、何となく恥ずかしくて、知っておかなければならないような気がするわけです。子規も、この漱石のエピソードを述べた後、
もし都の人が一疋(ぴき)の人間になろうと云うのは、どうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。
と書いています。
つまり、こういう状態は都市化がもたらしたもので、人が真の人間になるには土着の生活から始めて、ひとつひとつ経験を積み重ねていく必要があるというのです。この意見からすれば、漱石も、「疎外」された人間ということになるのでしょう。
よく考えてみれば、最近流行の「田植え研修」とか「農村実習」というのも、この考えの延長線上にあるとい思われます。
一方、この漱石の「無知」を、有名なマックス・ヴェーバーの「魔法からの世界解放」の観点から、積極的に読み変えることもできます。ヴェーバーは、自身の講演の中で、こう述べています。要約してみますと、
今、私(ヴェーバー)の目の前にいる聴衆の中で、「インディアン」のような、部族社会に生きている人々よりも自分の生活条件についてよく知っているという人は、ほとんどいない。彼らは、使用する道具について、私たちとは比較にならないほどよく知っている。
対して、私たちが電車に乗った場合を例にとって考えてみよう。物理学者でもない限り、一般的には、私たちはだれもが電車の動くわけを充分知っているとは言えないだろう。
しかし、ある意味で、私たちはそれを知らなくて済んでいるとも言える。私たちはただ電車がどう動くかを「予測」しうればよい。予測によって、電車の動きにもとづいて行為することができるのだ。
要するに、生活条件についての一般的な知識を、たくさん持っている必要はない。欲しさえすれば学ぶことができること。すべての事柄は原則上、予測によって意のままになること。このことを信じていることが、すなわち生活の様々な条件を「主知化し合理化している」ということであり、「魔法からの世界解放」ということである。
西欧文明は何千年来、この「魔法からの世界解放」を受け継いできたのである。 (以上、マックス・ウェーバー『職業としての人間』岩波文庫より)
この考え方によれば、漱石の「無知」は真の意味での無知ではなく、「魔法からの世界解放」を示す一例であるということになります。
必ずしも、田に植えてある植物の苗が米になることを知っている必要はない。必ずしもタケノコが竹になることを知っている必要もない。
苗が米になったり、タケノコが竹になったりすることを、知ろうと思えば知ることができ、米屋や八百屋に行けば、米やタケノコが手に入ると予測し、結果的にその通りになって、調理して食べることができること。これが重要なのだということです。
苗が米になることを漱石が知らずに済んでいたのは、文明がたゆまず「魔法からの世界解放」を行ってきたことの恩恵だったということになるでしょう。
ところで、私にとって興味深いのは、漱石の問題を、疎外として否定的にとらえるか、魔法からの世界解放として肯定的にとらえるか、ということではなく、この漱石の「無知」に対する正岡子規の解釈、——もし都の人が一疋(ぴき)の人間になろうと云うのは、どうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。——の方なのです。
苗が米になることを知らないと、なぜ人間として未完成だと見なされてしまうのか。逆に、生活条件についての一般的な知識を豊富に持っていると、どうして「一疋の人間」と呼ぶに足り得るのか。
そういう疑問を子規のコメントは呼び起こさせるのです。
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