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2011/03/19

地震と中野重治

大地震と大津波の後、東京にも余震が日に何度も襲ってきましたが、ここ2、3日はその回数も減ってきました。

世界各地で地震や津波の被害が伝えられても、どこか他人事のように感じていた私。しかし、人生で初めての震度5弱の揺れを体験し、インターネットで津波の映像を見たりすると、地震や津波というものの恐ろしさを痛感するようになりました。

奇妙な偶然というべきか、地震の翌日に読んだ中野重治の「広重」という作品のなかに、同じような感覚が、とても力強いのに絶妙に抑制された文章で書かれているのを見つけたのです。昭和23年の福井地震の体験を記したものと思いますが、心惹かれたので、ここに挙げておきます。

[戦争後]しばらくして私の郷里の方に地震があった。私の村は震源地のうちだったからぺしゃんこにやられた。

私の家もつぶれ、私のいとこなぞも二人三人と死んだ。幸か不幸か―むろん幸にちがいなかったが―私の母、ふたりの妹、妹の子供などはからだに別状なかった。

私は無理をして郷里へ行った。汽車も自動車も駄目になって、私は真夏の汽車線路みちを歩き、割れ目に足をとられぬ用心をして歩いて母親たちのところへたどりついた。

そこへ大雨が来た。大雨は三日降りつづき、そのあと小雨になってまだ降りつづいた。 二日目にはもう洪水になっていた。一里ほど南にある二十里ほどの川の堤が切れて、水は夜なかにはいって、提灯で見ている下で五分、一寸と高くなって行った。

屋敷の木立に棒をくくりつけて、仮小屋をつくってやっとしのいでいた私たちは見すぼらしく弱った。 仮りの便所で弱っていたところへ、すべてが水づかりになって食事のこともろくすっぽできなくなる。つぶれた家財道具が、引きだせば使えるものがあるかも知れぬまま、濁水にひたされて行くのを雨漏りの下で見ているのはつらかった。

私はそういうなかで、人間の知恵のことで私たちが欠けていることを感じた。智恵とか知識とかいってはあたらぬかも知れない。

鍋も釜も炭もないときどうして食うものをつくるか。寝る屋根がないときどうして小屋がけをつくるか。水で村がひたされたときどうやって筏舟(いかだぶね)をつくるか。鉈(なた)も鋸(のこ)も流れてしまったときどうして竹や木材を処理するか。

そういうことで私に知識がないのだった。それはほんとうに無力ということを私に感じさせた。

(『ちくま日本文学全集 中野重治』筑摩書房より。適宜、改行と補充を行った。)

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