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2011年4月の4件の記事

2011/04/27

わたしの道具箱 谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』

「わたしの道具箱」では、これまで文献の内容を知る事典類を取り上げてきましたが、よく考えてみると、書物の内容というのは文献事典以外にも知るすべがあります。たとえば、書評のたぐいです。

ただし、書評というのは、評者の実力が如実に出てしまうもの、ちゃんとやろうとすると、論文や本以上に難しいものだと私は思うのです。

というのも、本の内容に対する理解は当然のこと、執筆者が前提としている知的背景をカヴァーしていることも必要だし、さらにはその本が同時代において、あるいは同分野の他のさまざまな書物の中において、いかなる位置づけを有しているのかという点にも目配せができ、その上で良書か悪書かを自らの良心において判断し、そのエッセンスを800字やら1,200字やらで端的にまとめあげ、読者に買うに足りうる本であるかどうかの判断の基準を与えることができなければならないからです。

それに加えて、できればその評者の書いたものをもっと読みたいと思えるほど、文章が面白くて、かつ内容がタメになるものでないと!

というふうに、理想的な書評についての条件をあげつらっていくと、こんな厳しい条件をすべて満たしている書評は、なかなかないという結論になってしまうのですが、中には、これらの条件をすべて満たしていて、この人の書く書評はちょっとレベルが違うと感じるものがあります。

どういうレベルかというと、ためしに、その人が薦める本を買ってみると、確かにその本は他の同分野の本よりも優れている。2冊目、3冊目と買ってみても、それは変わらない。つまり、その人には書物を見極める眼力が備わっていると判断できるし、その人が絶賛するものは、中身を確認せずに購入しても、ほとんど外れがないという、そういうレベルであるわけです。

(もちろん、人には得手不得手があるので、どのジャンルも100パーセントはずしがないとまでは断言できないのですが。)

で、今回の「わたしの道具箱」で取り上げるのは、レベルの違う書評家のひとりであった谷沢永一の『紙つぶて/書評コラム 自作自注最終版』

この本の中で取り上げられている書籍はかなり役に立っていて、本当に勉強になります。次回、谷沢永一の薦めによって知った珠玉の辞書を御紹介しようと考えていますが、幅広く人文・社会科学などの隠れた名著を知りたい方は、『紙つぶて』は必携ではないかと思います。

そして、谷沢永一本人も『紙つぶて 自作自注最終版』の出来には自信があったらしく、「まえがき」でこう書いています。「この大冊が破格の厚志によって刊行された暁、私にとってもはや思い残すことはなにもないのである。」

Photo_2 ちなみに、『紙つぶて』は、内容だけでなく、その文章の面でも着目されています。これもまた、レベルの違う書評家のひとりである鶴見俊輔氏が、『文章心得帖』(潮文庫)の中で、谷沢永一の『紙つぶて』を取り上げているのです。

「書評にはほめる書評とけなす書評があり、ほめることに巧みな人とけなすことに巧みな人がいる」と指摘する鶴見氏が注目しているのは、谷沢永一のけなす書評の方です。

では、谷沢永一のけなす書評は一言で言うと、どんなものだったか。これについて鶴見氏が非常に面白いたとえをしています。

谷沢永一のけなす書評は、「相手をひっくり返しておいて、相手が謝っているところを、その眉間(みけん)を下駄で割る、そういう種類の文章です。」

なるほど(笑)。

確かに谷沢永一の書評には、「これはダメ」と判断した本の書き手に対して、情け容赦なく攻めるという側面があります。そして鶴見氏は、このあと、「私の印象ではほめる場合にはあまりあたっていない」と述べ、谷沢の真骨頂は、ほめる書評よりもけなす書評にあるというのです。

しかし、私自身は、谷沢永一が薦める本を自分で検討してみた結果、ほめる書評の方もあたっていると考えています。悪い本がわかるということは、同時に良い本がわかるということのあらわれだからです。

確かに谷沢永一の文章は、ほめているものより、けなしているものの方が面白い。それは、誰しも(自分以外の)他人、しかも業界の中で権威だと思われている人物がやっつけられているのを見るのが、ある意味で小気味良いからかもしれません。

しかし、読者にとって圧倒的に有益なのは、けなしている本よりも、ほめている本の情報なのではないでしょうか。

いずれにせよ、谷沢永一の『紙つぶて』は、傑作書評のひとつであることに、間違いはありません。

ちなみに、谷沢永一氏は今回の東日本大震災の3日前に81歳で亡くなられました。氏の書評の恩恵をこうむってきた者として、謹んでご冥福をお祈りいたします。

2011/04/20

死してなお二枚目、西郷信綱

Photo 故・西郷信綱先生の奥様みち子夫人より、西郷先生の蔵書目録をお送りいただきました(非売品です)。

今回の蔵書目録は、和書でなく、1500冊以上の「洋書」。ざーっとですが、最初から最後まで目を通してみると、さすが西郷先生。国文学者で、これだけの洋書の蔵書目録ができる人はそういないと思われる程のものでした。

西郷先生は斎藤茂吉の歌に心打たれて国文学に転身されるのですが、もともとは東京帝国大学で英文学を専攻していらしたし、後にロンドン大学で教鞭をとっておられたし、著書の中で何冊も洋書が挙げられていたりしたので、洋書は自在に読める方だと認識はしていたのです。

しかし、この目録からわかるのは、単に読めるとか、必要に応じて洋書を買っていたとか、そういうものでなく、かなり意図的に洋書を収集していたらしい、ということでした。

この目録作りを担当されたのは青木忠洋氏とのことですが、青木氏は、西郷先生がまだ御元気だった頃にすでに着手されていたとのこと。先生が使用中の本もあったことから、書籍のタイトルページを写真に撮り、それをもとに目録を作成したといいます。

時折、写真に不備があったり、現物がなくなっていたり、というさまざまな困難があったようですが、苦労の末に青木氏が分類したところによれば、西郷先生の洋書はだいたい以下のような構成になっていたとのことです。

1 文学
  1-1 文学論、文学批評、方法論、各ジャンル
  1-2 イギリス文学
  1-3 その他の国の文学
2 神話・神話学
3 記号学・記号論、言語学
4 文化人類学(社会人類学・人類学・民俗学・民族学)
5 哲学・思想
  5-1 現象学関連
  5-2  その他の哲学・思想
6 心理学、精神分析学、精神医学
7 宗教・宗教学
8 歴史・歴史学
9 社会科学(政治・政治学、社会学、社会思想ほか)
10  芸術・美学
11  その他

この順番で目録を見てみると、たとえば、1-1の「文学論、文学批評、方法論、各ジャンル」の分野では、ハロルド・ブルーム、ケネス・バーク、テリー・イーグルトン、ノースロップ・フライ、フレデリック・ジェイムソン、レイモンド・ウィリアムズといった人々の本を、まとめて収集していたことがわかります。

目録の解説者である小馬徹氏によれば、文学関係の書籍が全体の37%、人類学・記号論・言語学関連の書籍が23%、さらには哲学では現象学を「自家薬籠中のもの」にすべく収集していたとのことですが、私がとくに着目したのは、現象学以外の哲学の箇所。

ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ガダマー、ハイデガー、カッシーラー、レヴィナス、ラヴジョイ、ホワイトヘッド、リオタール、ポランニー、ポパー、リチャード・ローティ、ラッセル、ギルバート・ライル、エイヤー、といった人々の本はリストに載っていたのですが、ウィトゲンシュタインがどうも見あたらないのです。

ですが、社会科学の箇所を見ると、ピーター・ウィンチの“The idea of a social science and its relation to philosophy”(邦題『社会科学の理念 ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』新曜社刊)は載っていました。この本は、ウィトゲンシュタインを社会科学の分野に応用した古典的な研究なのです。

ウィトゲンシュタイン自身の書籍がないのは不思議で、少し意外な気がしました。

生前は時には本の置き場が変わっていたり、人に貸したりすることもあって、目録からだいぶ漏れている本があるとのことなので、ウィトゲンシュタインも漏れている可能性もありますが、西郷先生のご関心について考える際に、ここはポイントになるかもしれません。

ちなみに、奥様が書かれている「あとがき」には、ご自宅でいくつかの私的な研究会が開かれ、これらの蔵書を読んでいたとのこと。

私がとくに印象深かったのは、たとえば、日本民謡とルカーチ、グレヴィッチと新猿楽記、といった、洋書と和書を組み合わせで進められた研究会もあったという箇所。

それから、西郷先生がある人への書簡に記されたという次の言葉。「困難はそしてただ一つ大事なことは、日本という特殊な場からいかにして普遍につながるものを生み出すかという点にかかっている」。

これらは、まさに西郷先生が「二本足」の学者であったことを示すものだと思います。学者として、死してなお二枚目であり続けていると言えるでしょう。

蔵書目録と言えば、2006年に国書刊行会から『書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録』が刊行され、この本が山口昌男先生のご自宅に届けられた時、私はちょうどその場にいて、先生が包みをばりばりと開けて、中から本を取り出すところを見ておりました。

それが澁澤の蔵書目録だとわかったので、私は山口先生に『先生も、蔵書目録を作られた方がいいですよ。刊行されたら、私、買います。たぶん他のみんなも欲しがると思います』と進言したのです。

山口先生はかなりその気になった(と私には思われた)のですが、大量というには、あまりにもすさまじい量の書籍の目録作りができる人材がいないとのことで、結局ダメになってしまいました。すごーく残念。

このことを考えるにつけ、西郷先生の蔵書目録作りは、とてつもなく、たいへんな作業だったと推察できます。たいへん貴重なものをお送りいただきました。本当にありがとうございました。

2011/04/13

わたしの道具箱 文献事典補遺

前回の「わたしの道具箱」では『日本思想史文献解題』を紹介いたしましたが、このような、いわゆる文献の中身を知りたい場合に紐解く本として、たとえば社会学だったら『社会学文献事典』(弘文堂)、文化人類学だったら『文化人類学文献事典』(弘文堂)などがあります。

これらの文献事典のメリットは、そのジャンルの膨大な文献を実際に読む前に、あるいはどれを読もうか迷った時に、あらかじめ見通しがつけられるという点にあります。

ただし、文献内容の要約については、一人の人物が最初から最後まで作り上げた辞書/事典と異なり、個々の担当者によって紹介記事の出来にバラツキがあることも確かです。

これについて今でも思い出すと笑ってしまうのは、かつて『社会学文献事典』を読んでいて、椅子から転げ落ちそうになった記述のことです。

Photo

それは、私の「師匠」山口昌男先生が自著『道化の民俗学』を自ら内容要約した箇所。(ちなみに、山口先生によれば、どうも私は先生の「最後の弟子」ということになるようです。)

実際にこの本を広げて、この箇所を読んでいただくと、この面白さが伝わると思うのですが、どうして椅子から転げ落ちそうになるほど面白いのかというと、一番最初に「道化=知識人論を意図して書かれた本書の構成は以下のとおりである。」という、たった一行の紹介文の後に、各章のタイトルが箇条書きに並んでいて、その説明があるかと思いきや、その後に出てくるのは次のような記述なのです。

英文学者高山宏は後に、毎月全共闘のバリケードのなかでコピーをむさぼり読んだと言ってくれた。(中略)

[雑誌『文学』での]連載の途中から岩波書店から単行本化をすすめられたが、この種の本は当時の岩波書店の刊行物の間に収まっては意味が薄れるという理由で遠慮して、一番先に申し込みのあった新潮社から出ることになった。正しい決断だと思っている。

1997年来日した歴史学者ナタリー・ゼーモン・デビスと対談した折、彼女はこの本のことを知り、彼女の30年前の関心と私の関心とまったく併行していると大いに喜んだ。

どこが内容要約?……(笑)

 「『社会学文献事典』の編集委員は、山口昌男の暴走を身を呈して止めないと!」と秘かに突っ込みを入れましたです。私も自著の要約がひどく苦手なのですが、先生もご一緒のような? 

Photo_2

けれども、ここに書かれていることは噓ではなく、たとえば引用文中に出てくる高山宏先生は、著書『ブック・カーニヴァル』(自由国民社)の中で、

境界領域へ手を広げてみたいという欲望がたしかにみんなにあって、こういう「知」への深まりと広がりの、何となくしかし形が与えられないで鬱々としているところに——山口昌男氏の連載「道化の民俗学」が現われて、そうして若い人の学問イメージがしだいにはっきりと形をとり始めたのであった。それがフール研究史上の「驚異の年」、1968年のことである。この山口論文のコピーを、ぼくなども、バリケードの中でむさぼり読んだ。それから二月ほどして、安田講堂が「陥落」した。

と書いています。

Photo_3

ちなみに、山口先生の文章の中に出てくるナタリー・ゼーモン・デビスはたとえば『愚者の王国 異端の都市』(平凡社)を書いている有名な歴史学者で、拙著『猫はなぜ絞首台に登ったか』(光文社新書)の中で私も引用しています。

しかし、こういう特殊事例はあるにせよ、いやあるからこそ、事項によって書き手の異なる、この手の文献事典は面白く、読み応えがあると思うのです。

2011/04/06

平常心と職分

毎日なにかしら気になることが出てきて、なかなか落ち着いて自分の仕事をすることができないのは、ある意味で当然かもしれません。

しかし、この前、平時には明るすぎるほど明るいのに、節電のために灯りの絞られた薄暗いブックオフで、なんとなく先行きに不安を覚えながら本を見ていたら、ふいに私の頭の中に甦ってきた場面がありました。

それは、福澤諭吉が、上野戦争がおこっていたまさにその時、F.ウェーランド(Francis Wayland)の『経済学 Elements of political economy』の洋書を講義していたという場面だったのです。

自宅に戻ってから、早速このエピソードを『福翁自伝』で確認したところ、とても力強く、なんだか感動してしまいましたので、ここでご紹介します。なお、以下の文章は、福澤諭吉が口述し、できあがってきた速記文に加筆訂正を施したものだそうです。

明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席(よせ)も見世物も料理茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷(や)めない。

上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と[当時、慶応義塾のあった芝の]新銭座[現在の浜松町]とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気遣(きづかい)はないというので、丁度あのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。(中略)

世間を見れば、徳川の学校は勿論つぶれてしまい、その教師さんも行衛(ゆくえ)がわからぬくらい、まして維新政府は学校どころの場合ではない、日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりという有様で、その時に私が塾の者に語ったことがある。

「むかしむかしナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中纔(わずか)に一箇所を遺(のこ)した。

ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来オランダ人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に翻々(へんぺん)してオランダ王国は曾(かつ)て滅亡したることなしと、今でもオランダ人が誇っている。

シテみるとこの慶応義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中に如何(いか)なる騒動があっても変乱があっても未だ曾(かつ)て洋学の命脈を断(た)やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな」(『新訂 福翁自伝』岩波文庫)

このような政治主義と無縁な姿勢は、革新的な福澤諭吉論を書いたことでも有名な、哲学者の田中王堂にも見られます。福澤諭吉の系譜と言えるのではないかと思うのですが、王堂は、関東大震災で家が潰れた時でも、平常心を失わず避難先で執筆に打ち込んでいたようなのです。これについては、王堂の妻の田中孝子が以下のように記しています。

彼れ[田中王堂]はいつも言いました。

「自分は文を綴る時には其れを最善の、そして最後のものと見做すのだ。自分が一度発表したものに関しては今死んでも心残りはない。」と。

その代わり思うように出来るまでは、いくら催促をうけても雑誌の編集が遅れても、台所が欠乏しても妥協しませんでした。私達の貧しい生計がそこに基因していたのは言うまでもないことでした。

其れに反して、著述の気分が溢れている時には、環境の変化など意ともしません。

彼(か)の大震災で家が潰れ、仮小屋に雨露をしのいで居た時にも平然として書きつづけ、中央公論の記者を驚かしたこともありました。(田中孝子『桃夭』興亜書院)

田中王堂は紆余曲折の人生を経て、早稲田大学の哲学の教員となった人物です。彼がいわゆる非常勤で早稲田大学で講義を行っていた時、受講生の中に、かの石橋湛山がいました。湛山は王道を尊敬していたようで、たとえば『湛山回想』(岩波文庫)などを読むとそれがわかりますが、付け加えると、田中王堂が亡くなった時に、その墓を湛山自身が作ったということからも窺い知ることができます。

(以上の引用文中では、旧漢字を新漢字に、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに、踊り字を平仮名に直し、適宜行替えを施しています。)

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