« わたしの道具箱 『日本思想史文献解題』 | トップページ | わたしの道具箱 文献事典補遺 »

2011/04/06

平常心と職分

毎日なにかしら気になることが出てきて、なかなか落ち着いて自分の仕事をすることができないのは、ある意味で当然かもしれません。

しかし、この前、平時には明るすぎるほど明るいのに、節電のために灯りの絞られた薄暗いブックオフで、なんとなく先行きに不安を覚えながら本を見ていたら、ふいに私の頭の中に甦ってきた場面がありました。

それは、福澤諭吉が、上野戦争がおこっていたまさにその時、F.ウェーランド(Francis Wayland)の『経済学 Elements of political economy』の洋書を講義していたという場面だったのです。

自宅に戻ってから、早速このエピソードを『福翁自伝』で確認したところ、とても力強く、なんだか感動してしまいましたので、ここでご紹介します。なお、以下の文章は、福澤諭吉が口述し、できあがってきた速記文に加筆訂正を施したものだそうです。

明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席(よせ)も見世物も料理茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷(や)めない。

上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と[当時、慶応義塾のあった芝の]新銭座[現在の浜松町]とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気遣(きづかい)はないというので、丁度あのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。(中略)

世間を見れば、徳川の学校は勿論つぶれてしまい、その教師さんも行衛(ゆくえ)がわからぬくらい、まして維新政府は学校どころの場合ではない、日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりという有様で、その時に私が塾の者に語ったことがある。

「むかしむかしナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中纔(わずか)に一箇所を遺(のこ)した。

ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来オランダ人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に翻々(へんぺん)してオランダ王国は曾(かつ)て滅亡したることなしと、今でもオランダ人が誇っている。

シテみるとこの慶応義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中に如何(いか)なる騒動があっても変乱があっても未だ曾(かつ)て洋学の命脈を断(た)やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな」(『新訂 福翁自伝』岩波文庫)

このような政治主義と無縁な姿勢は、革新的な福澤諭吉論を書いたことでも有名な、哲学者の田中王堂にも見られます。福澤諭吉の系譜と言えるのではないかと思うのですが、王堂は、関東大震災で家が潰れた時でも、平常心を失わず避難先で執筆に打ち込んでいたようなのです。これについては、王堂の妻の田中孝子が以下のように記しています。

彼れ[田中王堂]はいつも言いました。

「自分は文を綴る時には其れを最善の、そして最後のものと見做すのだ。自分が一度発表したものに関しては今死んでも心残りはない。」と。

その代わり思うように出来るまでは、いくら催促をうけても雑誌の編集が遅れても、台所が欠乏しても妥協しませんでした。私達の貧しい生計がそこに基因していたのは言うまでもないことでした。

其れに反して、著述の気分が溢れている時には、環境の変化など意ともしません。

彼(か)の大震災で家が潰れ、仮小屋に雨露をしのいで居た時にも平然として書きつづけ、中央公論の記者を驚かしたこともありました。(田中孝子『桃夭』興亜書院)

田中王堂は紆余曲折の人生を経て、早稲田大学の哲学の教員となった人物です。彼がいわゆる非常勤で早稲田大学で講義を行っていた時、受講生の中に、かの石橋湛山がいました。湛山は王道を尊敬していたようで、たとえば『湛山回想』(岩波文庫)などを読むとそれがわかりますが、付け加えると、田中王堂が亡くなった時に、その墓を湛山自身が作ったということからも窺い知ることができます。

(以上の引用文中では、旧漢字を新漢字に、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに、踊り字を平仮名に直し、適宜行替えを施しています。)

« わたしの道具箱 『日本思想史文献解題』 | トップページ | わたしの道具箱 文献事典補遺 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Amazon

無料ブログはココログ