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2011/05/25

西郷信綱・ヴァールブルク文庫・山口昌男『本の神話学』

4月20日の記事「死してなお二枚目、西郷信綱」で取り上げました、私家版の『一つの軌跡 西郷信綱洋書蔵書目録』。

私の注意をひいた箇所はいろいろあり、その大半を先日ブログに書きましたが、実はもう1つ、とくに興味を覚えた箇所がありました。

それは、目録の「凡例」のところで、目録作成を担当された青木忠洋氏が指摘していることなのですが、西郷先生が生前、蔵書の置き場を時々変更されていたという点です。

私がここに興味をひかれた理由は、前回取り上げた山口昌男先生の『本の神話学』の最初の章に書かれているヴァールブルク研究所に所収されている文庫の配置を連想したからでした。

ヴァールブルク研究所(ウォーバーグ研究所)とは、ドイツの美術史家アビ・ヴァールブルク(Aby Warburg)がハンブルクに建てた、自身が30年にわたって収集した膨大な蔵書を中心に構成された研究所のこと。

のちに蔵書はロンドン大学に移されました。ヴァールブルク研究所の紆余曲折の詳細については、ザクスル(松枝到訳)「ワールブルク文庫の歴史」『思想』1980年9月号などで知ることができます。

この研究所の文庫は、通常の本の並べ方とは異なる、非常に奇妙な本の配置を行っていました。しかも、その奇妙な配置は、ヴァールブルクがある意図をもって行っていたものであり、深い意味が隠されていました。

しかしながら、このヴァールブルク文庫のような、ジャンルを混合したような横断的な本の配置、一見するとバラバラで規則性がないような、ごった煮の本の配置に対して、そもそもなぜこのような並べ方をしているのか、その意味は何かと問いかける人間の数は、普通に考えても、そう多くないだろうと思われます。

Photo ところが、『啓蒙主義の哲学』『シンボル形式の哲学』等で有名なエルンスト・カッシーラー、——彼は、哲学から神話や芸術、宗教に至るまでの様々な領域から、世界を解釈する諸形式を読み解こうとしたわけですが——、彼がこのヴァールブルク文庫の配置の意味をいち早く見抜いたという、たいへん有名な話があります。

今回から、西郷信綱の蔵書の並べ替え、ヴァールブルク文庫の配置、ヴァールブルク文庫の配置に秘められた問題という連想で、話を進めてみたいと思います。

Photo_4 さて、ヴァールブルク文庫とカッシーラーとの出会いについては、ヴァールブルクの秘書で、後にヴァールブルク研究所の初代所長となったフリッツ・ザクスルが、講演録『シンボルの遺産』(ちくま学芸文庫)の中で述べています。

ちなみに、ザクスルの後に、ヴァールブルク研究所の所長になり、多大な研究成果を挙げた人物として、フランシス・イェイツ、ゴンブリッチ、パノフスキーなどがいるのも興味深いところですが、彼らの話はまた別の機会に譲ることにして、今回はザクスルとカッシーラーの出会いに焦点を絞って述べておきます。この箇所のザクスルの文章は非常に面白いの で、少々長いことを厭わずに、引用してみたいと思います。

ヴァールブルク研究所の歴史の中でも忘れ難いある日、カッシーラーは、ヴァールブルクが30年以上にもわたって収集した蔵書を見にやって来た。

当時ヴァールブルクは、戦後[=第一次大戦後]の緊張のせいで神経がすっかり衰弱していたので、スイスへ療養に行っていた。そこで、その間文庫の管理をまかされていたわたし(=ザクスル)がカッシーラーを案内した。

彼は丁寧なものごしの訪問者で、ヴァールブルクの意図を説明するわたしの言葉に注意深く耳を傾けていた。(中略)

帰りぎわ、彼は、彼特有の、丁重ながらはっきりとした言い方でこう言った。

「この蔵書はおそろしいばかりのものです。わたしとしては、この文庫をまったく避けて通るか、あるいはここに幾年にもわたって閉じ籠るかのどちらかしかないでしょう。ここに包含されている哲学的諸問題には、わたし自身の問題と密接につながるものがあります。それにしても、ヴァールブルク氏が集められた具体的資料には圧倒されてしまいますね」。

わたしは彼の言葉にすっかりうろたえてしまった。なにしろほんの一時間ほどで、この人物は、わたしが今まで会った誰よりも鋭くこの文庫に具体化されている本質的理念を理解してしまったのだ。

このように、奇妙な本の配置、ヴァールブルク文庫のような、あっと驚くような本の配置が持つ意味について、カッシーラーをはじめとする、ごく一部の人々は関心を持ってきたわけです。

そこで、私が問題にしたいのは、このような奇妙な本の配置の意味について、どのように考えたらいいのかということです。

この問いに対する答え方は、いくつか考えられると思います。たとえば、その1つとして、「本の配置というものは、本の所有者の知的世界の可視化である」という答えがあるでしょう。

つまり、著者名のアルファベット順に並べようが、タイトルのアルファベット順に並べようが、図書館の分類に従って並べようが、自分が決めた順番で並べようが、分類すらめんどくさがって適当に本を投げこもうが、それはすなわち、本の所有者の知的世界をあらわしているのだ、というわけです。

もちろん、このような考え方には一理あって、ヴァールブルク文庫の並べ方に、ヴァールブルクの世界観、たとえば既存の秩序、あるいはそれまで持っていた自分の価値観をずらしたいという意図のようなものがあらわれていると考えられるし、カッシーラーもそこに共鳴したとみなすことができます。

しかし、実のところ、ヴァールブルク文庫には、個人の世界観を超えた問題、一種の文化史上の問題ともいうべきものが表現されていました。そして、カッシーラーが見抜いたのもその点だったのです。

 

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