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2011/06/01

ヴァールブルク文庫の意味とヴァールブルクの系譜

ヴァールブルク文庫に秘められた文化史的意味。これを考える手がかりは、実は、前回のザクスルの引用文中で、私が中略した部分に書かれてあります。

以下の文章はその中略部分なのですが、この中に、ヴァールブルク文庫の配置に具現化され、カッシーラーが見抜いた「本質的理念」とは何か、ヴァールブルク文庫の配置は従来の本の配置とどこが違っていて、文化史的にどういう意味を持っていたのか、という疑問に対するヒントが書かれています。

ヴァールブルクは、本を並べるのに、哲学の本の隣に占星術、魔術、民俗学の本を置き、芸術の部門を、文学、宗教、哲学の部門と結びつける、という方法をとっていた。

ヴァールブルクにとって哲学研究は、いわゆる原初的精神(プリミティヴ・マインド)の研究と切り離すことのできないものだったし、宗教、文学、芸術における心像の研究とも分かちえないものであった。

こうした考え方が、書棚の一見不規則な本の配列に表われていたのである。

カッシーラーはすぐさまそのことを理解してしまった。

通常は、哲学の隣に占星術や魔術、民俗学の本は配置しないわけです。たとえば、日本十進分類法に従うならば、哲学の隣には存在論や認識論の本、その隣には東洋思想、その隣には西洋思想、その隣に心理学、……と、まるで近い色が少しずつ変化していって、最後には反対色に至るような色見本を見ているかのような配置になります。

ところが、ヴァールブルクは、哲学の隣に、一見すると今日の合理的整理法から乖離しているように映るのですが、占星術、魔術、民俗学といったプリミティヴ・マインドの研究書を置いていた。

これはどういうことかというと、既存の秩序で本を配置することは、「近代」=「西欧」的な思考にもとづいて本を配置しているということであって、もし「近代」以前の文化や思考を真に了解しようと努めるのであるならば、今のような「近代」=「西欧」的な目で知を眺めるような既存の本の配置というものを、根本から変えることが必要となる、ということなのです。

言い換えるならば、「近代」以前・「西欧」以前の、「古代」の思考・「未開」の思考を理解しようとするならば、「古代人」「未開人」が体現している思考秩序にできるかぎり接近するしかないわけです。

Photo_5 おそらく、このように考えたヴァールブルクは、哲学の隣にプリミティブ・マインドの書籍を置き、自身の蔵書を並べ替えることによって、「古代人」や「未開人」の思想・発想を、自身の書斎の中に具現化しようとしたのではないかと思われます。

しかも「本の並べ替え=古代人・未開人の思考の具現化」は、たった一度、配列を変えただけで満足するような性質のものではありませんでした。ヴァールブルクは試行錯誤を繰り返しただけでなく、それはほとんど命をかけた精神的な闘争であったと思えるほど、壮絶なものだったようです。これについて、ザクスルは次のように述べています。

本の配列も不可解なもので、おそらくはワールブルクが倦むことなく本を並べてはまたやり直したあげくの、大変独自な並べ方であったように思う。考えを組み立て、事実の相互関係について新しい着想が湧くたびに、それにふさわしく本を分類し直していったのだろう。(中略)

ワールブルクは生涯、しばしば、混乱し、死にもの狂いになって、精神の表現、その本性、歴史、そしてその相互関係を理解しようと闘ってきた。この闘いは文庫の分類体系を創り出すことで終った(後略)。

(ザクスル(松枝到訳)「ワールブルク文庫の歴史」『思想』1980年9月号)

私は、故・西郷信綱先生が蔵書を時折入れ替えていたというところに、西郷先生も、既存の分類や配列にとらわれなかったヴァールブルクのことが念頭にあったのではないか、もしかすると、西郷先生も、本の配列の変化による新しいテーマのひらめき、新しい発想のひらめきを求めていたり、古代の発想への接近をもくろんでいたのではないか、そんな想像をふくらませたりもしています。

それから、ヴァールブルクと似たような、事物の秩序や配列を問題にしていた人物という点からいえば、たとえば、エピステーメーという論点を設定したミシェル・フーコーの名も思い浮かんできます。渡辺守章氏との対談の中で、フーコーが述べている言葉は示唆的です。

(前略)哲学者は、<見えないもの>を見えるようにするのではなく、<見えているもの>を見えるようにする役割を持っていると思います。つまり、常に人が見ていながらその実態において見えていないもの、あるいは見損なっているものを、ちょっと視点をずらすことによってはっきりと見えるようにする作業なのです。(M.フーコー+渡辺守章『哲学の舞台』朝日出版社)

事物の秩序や配列というものは、すでに存在しているし、私たちはそれを見ながら生活しているわけですが、実のところ、見えているようで見えていないもの、見損なっているものがある。

たとえば、本を並べることによって、人々は知の秩序を構成しているわけですが、そこにどのような秩序が形成されているのかをしっかりと把握してはいない。

そういう時、既存の秩序や配列をほんの少し変え、今までとは異なった視点に立ってみることで、今まで自分たちはどのような秩序のもとに生きていたのかが、明瞭に見えるようになる。こういう仕事をするのは「哲学者」の仕事であると、フーコーは言います。

この意味でいえば、フーコーも、ヴァールブルクも、同じ「哲学者」的な作業を行っているのです。

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