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2012/04/28

一喝! 啓蒙思想としての仏教

これについてはちょくちょく書いていて、本当に恐縮なのですが、4月以降、これまでに経験したことのない忙しい毎日が、さらに勢いを増して続いています。

一つは、大学での業務で、つい先日などは、朝の8時から次々と送られてくるメールの返信を書いては送信し、書いては送信し、書いては送信し、……を繰り返し、気づいたときには、簡単な昼食をはさんで、あっという間に夕方の7時になっていました。

二つめは監修の仕事。二つの仕事が、もろもろの事情で、ほぼ同時期に締め切りを迎えるため、原稿のチェックと執筆に、てんてこまいとなっております。

そんな毎日の連続で、心はすっかり散乱状態。

ところが、昨日帰宅したところ、ポストに冊子小包が入っておりまして、中には黒崎宏先生の新刊、『啓蒙思想としての仏教』(春秋社)が封入されておりました!

黒崎先生のいつものご本と同じように、質実な装丁です。

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83歳にして、常に前向きで真剣な研究姿勢を堅持されている先生からお送り頂いた新刊書を前にして、日々の仕事に埋没しそうになっていた私は、一喝されたような気分になりました。

今回の先生のご本は、ウィトゲンシュタインなどの哲学を参照しつつ、仏教の基本構造を解明されたものです。

全体を拝見して、特に気になったのは、和辻哲郎の倫理学と仏教の縁起の思想との接点について言及されているところでした。

黒崎先生の解釈によれば、和辻の倫理学が、「空(くう)」の思想につながるというのです。

和辻が、ハーバード白熱教室でお馴染みの、マイケル・サンデル教授と同じくコミュニタリアン的な考えを抱いていたことについては、かねてから私も関心を持っていましたが、和辻と「空性(くうしょう)」との関係とは一体!?

和辻の人間のとらえかたについての、黒崎先生の説明を引用してみます。

先ず、夫があり、妻があって、その共同存在として夫婦という存在があるのではない、という事である。そもそも夫も妻も、それ自体で存在しているわけではない。妻あっての夫であり、夫あっての妻であり、更には、夫婦という存在あっての夫であり妻なのである。それゆえ、その意味では、夫も妻も独立存在ではないのである。かと言ってもちろん、夫という存在、妻という存在がなくては、夫婦という存在も成り立ち得ない。これを要するに、夫妻あっての夫婦であり、夫婦あっての夫妻なのである。(『啓蒙思想としての仏教』)

このような人間の捉え方は、確かにコミュニタリアン的だと言えます。つまり、個人を共同体的な存在、つながりの中の存在、関係性の中の存在、和辻の言葉を借りれば「間柄的存在」、と見なしているわけです。

ところが、この諸関係に位置づけられる「個人」には、もう一つの側面があると黒崎先生は述べています。

夫婦も夫妻も、互いに他によってはじめて成り立つ存在なのであって、その意味では、いずれも独立存在ではない。そしてその意味で、夫も妻も夫婦も「空」なのである。独立存在でない、という意味で「空」なのである。(前掲書)

この、「独立存在ではない」ということと、「空」との関係を理解するには、少々説明が必要です。

まず、空とは、個々の事物が、世界の中で独立しているのではないということ、つまり、それ自身の力で存在しているのではないということ、いいかえれば、独自の実体や本質が欠けていることを意味しています。

逆に言えば、物事は互いに依存して存在しているということになります。これを「縁起」と呼びます。

ちなみに、空と縁起は同じ現象を見方を変えて説明したものです。つまり、事物に実体が欠けているという点から説明すれば空となり、相互に依存して事物が存在しているという点から説明すれば縁起ということになります。

さて、夫は妻に、妻は夫に、それぞれ依存して存在の意味が確定しています。そして夫自体、妻自体を夫と妻の関係(夫婦)から切り離して理解しようとしても理解できません。

妻は、夫がいるからこそ妻として把握され、逆に、夫も妻との関係で夫として位置づけられているわけです。

このことは、結婚をしていないのに、「私は妻です。」とか「私たちは夫婦です。」いうことの無意味さを考えれば理解しやすいと思います。

ようするに、依存関係を取り除いて、独立した存在として、妻や夫や夫婦とは何かということを問題にしようとしても、その本質や実質を明らかにすることは不可能だということです。

くりかえしになりますが、夫も、妻も、夫婦も、意味的に相互に依存しているわけです。

ですから、妻自体、夫自体というような、依存せずに存在している事象を想定して、その本質を見いだそうとしても、そこにはなにものも見いだせないということになります。

そして、夫自体、妻自体の本質が見いだせないということは、その存在の本質が欠けているということを意味しています。そして、それは空(emptiness)ということにほかなりません。

今、夫と妻と夫婦について説明してきましたが、これを「私」や「私」をとりまく全ての現象にあてはめ、言語的な観点を加味して考えていくと、仏教思想の大学者・ナーガールジュナ(龍樹)が説いた、空の思想の入り口に近づくことができるのではないかと思います。

私にとって、この読み替えはかなり刺激的でした。そしてすっかり日常に埋没しかかった(あるいは崩れかかった?)生活を、学問という方向に、即座におしもどしてくれる力を与えてくれました。

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