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2016年8月の5件の記事

2016/08/29

ガートルード・スタインとおもしろ広告

太陽社から出版されたL・ラグランの『文化英雄』をぱらぱらとめくっていたところ、なんということもなく、本のうしろについている同社の出版広告に目が留まりました。

その中に『ガートルード・スタインの構造』という本がありました。

「ガートルード・スタインって、聞いたことがないな」と思い、まずはマイクロソフトの総合大百科「エンカルタ」で調べてみると、スタインは、アメリカの詩人・小説家で、作品中で「構文と句読点の使い方を根本的に革新し」「実験的な手法をこころみた」人だということがわかりました。

彼女の作品は、「しばしば誤解され、文章が意味をなさないとあやまってうけとられることも多かった」ようです。

また、彼女のアパートは一種の文芸サロンのような趣があり、ピカソやマティスなどもおとずれていたとのこと。

がぜん興味がわいてきました。

そこで次に、このガートルード・スタインについて書いた本の広告文を読んだのですが、最初は「なるほど、これはけっこう重要な人かも」と思いつつ、読み進めていくと、広告文の最後の2文の部分で吹き出してしまい、立っていることさえ難しくなって、床の上で、ゴロゴロ転げ回ってしまいました。

それくらい、私にとっては、おかしい

以下に記しておきます。

みなさんは、いかがですか?

G・スタインはまことに不思議な女性、否、触媒である。

例えばボルティモアの黒人街で黒人を観察して書いたはずなのに、作品「メランクサ」にはちぢれ毛も、厚くまくれ上った唇も、白い歯もまるででてこない。

また、『アメリカ人の形成』について書いても同様で、皮肉なことに、アメリカ人らしきものはおろか、人間そのものが消えていなくなってしまうのである。

イナゴの後には借金しか残らぬという西部の諺があるが、スタインの存在はいわば一種の通り魔のようなものであり、奇蹟である。

生きている「いま」こそがすべて。文字通りすべてであって、そのためにはコンマもセミコロンも使わぬほど用心深く、したがって動詞のつらなりばかりが生きているその散文を、あるいは名詞のつらなりばかりが生きているその詩を読むのに根気よくつきあわされ、淫したふうに、ぼんやりとそれに耳を傾け聞き惚れていると、ただもうわけもなくねむく、ねむくなってくるのである。

力量あふれた著者を得た本書は、その眠気の謎を謎としてよく保存しつつ、それでいてきわめて純度の高い鉱脈をそこ、ここに確かに探り当てている。

2016/08/22

翻訳の文章とリズム

今回は、前回述べたシモーヌ・ヴェイユの師アランに関係して、彼の著作の翻訳の文章について書いてみたいと思います。

アランの『精神と情熱とに関する八十一章』(創元ライブラリ)は、かの小林秀雄の手による翻訳です。

これについて、中村雄二郎が『哲学の五十年』(青土社)の中の「小林秀雄とアラン」という箇所で、アランの本の冒頭部分に対する小林と自分の翻訳とを具体的に比べつつ、論評をしています。

その翻訳の違いが、とても興味深いのです。

まずは、小林秀雄の翻訳を挙げてみます。

僕らの手ではどう変えようもないものとして、風景は眼前に姿をあらわしている、風景の印形が僕らの心に押されただけだ、そういうふうにだれでも無邪気に考えている。

次は、同じ箇所に対する中村雄二郎の訳。

だれでも素朴にこう考えている。風景は、われわれの手ではどうにも変えがたい物として眼前にあらわれ、われわれはその刻印を受けとりさえすればいいのだ、と。

この二つの訳文の違いについて、中村は、こう述べています。要約すると、

小林秀雄が自身の評論の中でも使っている「僕らは、……だ」「風景の印形」「無邪気に考えている」という訳文は、「リズミカルであっても、ときに論理の筋が掴まえにくくなることがある」。一方で、私の訳は、「論理の筋が掴まえやすくなったと思うし、アランの原文のトーンにも少しは近づくことができた、と自分では思っている」。

けれども、後になってみると、中村は、「小林訳を乗り越えるのはなかなか難しいと思うようになった」といいます。

なぜなら、中村自身が「言語コミュニケーション」においても、「哲学」においても、リズムを重視するようになったからだ、というのです。

前回、アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法について書きましたが、中村はその思考を伝えるすべとしての文章のリズムの重要性を指摘しているということになります。

中村訳の翻訳は、『哲学講義』という題で出版されています。

2016/08/10

アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法

田辺保氏の『シモーヌ・ヴェイユ』(講談社現代新書)をながめていたところ、ヴェイユの思考の仕方や記述の方法がとても参考になったので、記しておきます。

ヴェイユの師は、アランという筆名で有名な哲学者のエミール・シャルチェですが、彼女はその師アランから、次のような方法を教わったということです。

一つめ。

一流の哲学者の本を読み、「もっとも有益な実質を直接引き出してくる」こと。

そのためには、その哲学者の本を「1ページずつばらし、まっ白な大きい紙にはりつけなおして、その余白に読書ノートを書きとめる」。

「紙は大きければ大きいほどよい」。

なぜなら、「何も書かれていない純白の空間は、精神の集中と傾倒を否応なく強いるから」。

二つめ。

「スタンダールにならって少なくとも日に二時間はものを書くように。また、書いたものを消したり、訂正したりしないように」。

なぜなら、「『書く』という作業は、思考を強い、そして、訂正せずに文章をつづるという訓練は、思考の明快な流れを持続させて行く努力を要求する」から。

この教えを忠実に守った結果、ヴェイユは、「すべてにぬきんでたスピノザの注解」(アランによるコメント)をなしとげ、「過酷な工場生活のさ中にも、頭痛にうちひしがれているあいだにも」「ペンをとって自分の思索を紙上に書きとめるという作業を中止しなかった」ということです。

ちなみに、ヴェイユの師であるアランの『プロポ』(みすず書房)は、「二枚の便箋に、訂正なしで一気呵成に」、30年にわたって書き続けられたものだという解説が、みすず書房のホームページ上にありました。

2016/08/05

女教皇ヨハンナ

今日は、いただいた本の紹介をしたいと思います。

もうだいぶ前(かれこれ8ヶ月ほど前)の話になってしまったのですが、私の東大文学部COE時代の同僚研究員である藤崎衛(ふじさき まもる)さんと、エリック・シッケタンツさんから、訳書『女教皇ヨハンナ 伝説の伝記(バイオグラフィー)』(三元社刊)をいただきました。

ヨハンナ。

女性の教皇で、中世に存在したとされる人物です。

彼女をめぐっては、ドナ・W・クロスが『女教皇ヨハンナ』という小説を書いていて、ドイツでもベストセラーを記録し、映画化もされています。

今回の本は、このクロスの小説を梃子にして、ヨハンナについて書かれた史料、出産シーンを描いた写本などを丹念に追いながら、ヨハンナの伝説とそれをめぐる言説を描いています。

私がとくに興味深かったのは、(『クソマルの神話学』を書いた者としては当然の反応ですが)教皇が座る「糞便の椅子」。

なぜ聖なるものと穢れたものがセットになるのでしょうか。。。不思議です。

この本は、きちんとしているのに、面白い。しかし、とくに感心したのは、附録の史料に丁寧な注がついていて、初学者の便宜を図っていたこと(附録史料の翻訳には、もうお一人、森本光さんも参加されています)。

この本の翻訳にあたっては、複数の言語の能力と時代背景への注意力や目配せなどが必要となり、たいへんな労作だと思いました。

なのに、日本語がとても読みやすいのです。

ちなみに、かつて、『芸術新潮』の仕事をしたとき、ドイツ出身のエリックさんに、ヨーロッパ(とくにドイツ)での神話教育について教えてもらったことがありました。

残念ながら、その記事は紙幅の都合でカットされてしまい、そのときは、エリックさんを紹介できなかったのが、とても残念でした。

遅ればせながら、今回、藤崎さんとエリックさんを紹介できて、とてもうれしいです。

興味のある方は是非読んでみてください。

2016/08/03

ギリシャ悲劇と価値の衝突

以前、このブログで、メトロポリタン・オペラのライブビューイングで『エレクトラ』を見たこと、授業で精神分析学のエレクトラ・コンプレックス(エディプス・コンプレックス)を扱っていること、それから、エレクトラ・コンプレックスのもととなったエレクトラの物語について述べました。

実は、メトロポリタン・オペラのライブビューイングを見て、私が興味深い演出だなと思ったのは、エレクトラの弟オレステスが、父殺しの犯人である母親のクリュタイムネストラに復讐を遂げたとき、エレクトラは実の母親が殺されたにもかかわらず、まったく動揺していなかったことでした。

実の父親が殺されて、周囲からは「嘆きすぎ」と言われるほど嘆いたエレクトラなのに、父殺しの犯人とはいえ、実の母親の死にはまったく嘆かないし、良心の呵責も起きない。

それは、いったいなぜなのか。

このあたりが気になったので、いろいろと調べていたのですが、さらに面白いことがわかってきたので、覚え書きとしてメモしておきます。

まずエレクトラには、

父親のアガメムノン(アガメムノンは妻のクリュタイムネストラとその間男に、風呂に入ろうとしているときに殺される。クリュタイムネストラは、夫アガメムノンがトロイア戦争に出かけるときに自分の実の娘をいけにえに捧げたのを恨んで、夫を殺したいと思った。)

アガメムノンの妻でエレクトラの母のクリュタイムネストラ(クリュタイムネストラは、エレクトラの弟で自身の息子であるオレステスに殺される)

エレクトラの弟オレステス

といった家族があり、彼らが登場する戯曲はたくさん書かれています。

たとえば、アイスキュロスのオレステイア三部作(『アガメムノン』『供養する女たち』『慈みの女神たち』)や、ソポクレスの『エレクトラ』などです。

その中の『慈みの女神たち』には、次のようなエピソードが出てきます。

託宣の神アポロンみずからが、オレステスに実父のかたきを討てと命じたこと。

ポリスの人々の意見を述べる合唱隊(コロス)が、実の母親殺しは重罪なので、犯人(オレステス)を追放すべきだと主張していること。

つまり、オレステスは、神の命によって、実の父アガメムノンのかたきを討たなければならないのですが、そのかたきが、よりによって、殺してはならないとされる実の母親だったわけで、オレステスはこのジレンマを体現している存在ということになります。

今、アイスキュロスの『慈みの女神たち』を例にとって述べましたが、このように、エレクトラとその一族をめぐる悲劇には、あるジレンマが描かれているということがわかります。

ところで、マッキンタイアは『美徳なき時代』という本の中で、その対立を象徴する言葉のひとつとして、「正義(ディカイオシュネー)」という言葉を挙げています。

この言葉に着目しながら、戯曲を読み直すと、「なるほど」とうなずく箇所が随所に出てきます。

それぞれの戯曲の中で、おのおのの人々は「正義」の観念のもとに生き、行動をしているのですが、戯曲の中では、おなじ正義という言葉でも、それぞれの登場人物の信じる正義の意味が異なっていることに気づきます。

劇中で対立する登場人物たちが、どちらもおのれの信じる「正義」にもとづいて行動しているため、戯曲を読む側、演劇を見る側は、どちらが正しいのか、いったいどちらの「正義」が真の正義なのかがわからなくなってきます。

観客は、物語が進行するにつれて、異なった正義どうしの衝突を目の当たりにするのです。

父殺しのかたきを討つのが正義だと思っているエレクトラは、実の母が殺されても動じません。

しかし、それを見ている私の方は、母親殺しは倫理に反すると思っているので、母を殺させておいて動揺しないエレクトラに奇妙な感じを持ってしまうわけです。

ここから、この衝突の背景にあるものは何かという、とても興味深い問題も出てきます。

というわけで、関心のある方に、是非とも、私をこの問題にいざなったマッキンタイアの力作『美徳なき時代』(みすず書房)を読まれることをおすすめしたいと思います。

ちなみに、マッキンタイアは、『ハーバード白熱教室』で有名になった、あのサンデルと同じコミュニタリアンの立場から議論を展開していますが、マッキンタイアはサンデルとは違って思想史的、言説史的なアプローチをとっていますので、観念史や精神史に興味のある方には、とても有益な一冊だと思います。

ところで、サンデルの『ハーバード白熱教室』は、うわさになっていたので、私もDVDを購入して見ました。

見終わった後に感じたことは、サンデルの力量に感服するとともに、日本の事例については的を外しているということでした。

おそらく、そこに、マッキンタイアのいう、依拠する伝統の差異への考慮が必要になってくるのだと思います。

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