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2016/08/22

翻訳の文章とリズム

今回は、前回述べたシモーヌ・ヴェイユの師アランに関係して、彼の著作の翻訳の文章について書いてみたいと思います。

アランの『精神と情熱とに関する八十一章』(創元ライブラリ)は、かの小林秀雄の手による翻訳です。

これについて、中村雄二郎が『哲学の五十年』(青土社)の中の「小林秀雄とアラン」という箇所で、アランの本の冒頭部分に対する小林と自分の翻訳とを具体的に比べつつ、論評をしています。

その翻訳の違いが、とても興味深いのです。

まずは、小林秀雄の翻訳を挙げてみます。

僕らの手ではどう変えようもないものとして、風景は眼前に姿をあらわしている、風景の印形が僕らの心に押されただけだ、そういうふうにだれでも無邪気に考えている。

次は、同じ箇所に対する中村雄二郎の訳。

だれでも素朴にこう考えている。風景は、われわれの手ではどうにも変えがたい物として眼前にあらわれ、われわれはその刻印を受けとりさえすればいいのだ、と。

この二つの訳文の違いについて、中村は、こう述べています。要約すると、

小林秀雄が自身の評論の中でも使っている「僕らは、……だ」「風景の印形」「無邪気に考えている」という訳文は、「リズミカルであっても、ときに論理の筋が掴まえにくくなることがある」。一方で、私の訳は、「論理の筋が掴まえやすくなったと思うし、アランの原文のトーンにも少しは近づくことができた、と自分では思っている」。

けれども、後になってみると、中村は、「小林訳を乗り越えるのはなかなか難しいと思うようになった」といいます。

なぜなら、中村自身が「言語コミュニケーション」においても、「哲学」においても、リズムを重視するようになったからだ、というのです。

前回、アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法について書きましたが、中村はその思考を伝えるすべとしての文章のリズムの重要性を指摘しているということになります。

中村訳の翻訳は、『哲学講義』という題で出版されています。

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