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2016年9月の1件の記事

2016/09/20

情報処理技術としての読書法:はじめに

現代人の生活に、パソコンやスマホなどの電子機器はなくてはならないものです。

誰しもがそうだと思いますが、私などはとりわけ検索機能に、多大な恩恵をこうむっています。

たとえば、『古事記』の中に、●●という表現はいくつ出てくるのだろうか、などといったことは、『古事記』がテキスト化してありさえすれば、一発で検索!

(ちなみに、『クソマルの神話学』を書いた頃、検索機能はまだそこまでは充実しておらず、テクストを全部読みながら、使用法をピックアップしていかなければならず、たいへんでした。)

ということで、現代の研究者、とくにテクスト解釈を行っている研究者にとっては、パソコン、および原典の電子化ほど便利なものはありません。

しかし、検索機能の恩恵が増大すればするほど、研究者自身の暗記能力はずいぶん落ちているなとも、自戒を込めて、痛感するのです。

今思い返しても、すごいなと思うのですが、私が尊敬している二世代前の研究者は、みなさん古典のテキストを丸暗記していました。

「●●の表現は?」とたずねると、『古事記』のどこそこ、それから、『万葉集』のどこそこ、といった具合に、答えがすぐに返ってきたものです。

しかし、今はインターネットあり、ポータブルのパソコンありの時代。

データにいつでもアクセスでき、検索できるので、テキストを丸暗記し、頭の中のメモリにデータをつめこんでおく必要がなくなりました。

ところで、電子機器の発達は、記憶力を高めなくてはならないといった切迫感を喪失させたほか、「読書法」「記憶法」といった知の技法、情報処理技術の様相も、さまがわりさせたと思うのです。

たとえば、現代の私たちは、コンピュータの検索機能によって、知りたい情報にすぐにアクセスできる一方、キーワードの前後の情報しか読まなくなっています。

つまり、私たちが検索機能によって抽出しているのは、分断された情報なのです。

この検索機能はコンピュータの発達以前にも、百科事典などの巻末に出てくる索引という形で存在していました。

パソコンの検索機能が存在せず、巻末に索引がついていない。そんな時代に生きた先人も、実は私たちと同様に、アナログの媒体からいかに情報を引き出すかということに苦心しました。

その先人の苦心の跡。すなわち、パソコンのない時代の情報処理技術。

それが当時、「読書法」やら「記憶法」などと呼ばれたものでした。

これから、アナログ時代の情報処理技術である「読書法」について、しばらく紹介してみたいと思います。

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