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2017年3月の1件の記事

2017/03/06

デュレンマットの戯曲

先月のことですが、ネブカドネザルに関するオペラと戯曲を立て続けに2つ見ました。

1つは、METのライヴ・ビューイングで見たヴェルディのオペラ『ナブッコ』で、プラシド・ドミンゴが主役ナブッコ(ネブカドネザルのこと)を演じていました。

ご存じのとおり、ドミンゴは、パバロッティやホセ・カレーラスとともに、「スリー・テナーズ」として有名ですが、年齢を重ねた結果、近年はバリトンで活躍しています。

現在、76歳というから驚き。人間の寿命が100歳近くなっていく世界の中で、ドミンゴの活躍は、キャリアと老いのバランスを改めて考えさせるような、生き方のモデルを示しています。

ちなみに、音楽はよかったのですが、ストーリーの方は、いつものヴェルディ、という感じ。

(厳しいコメントかもしれませんが、ヴェルディの作品は、私には登場人物の行為に必然性が感じられないことが多くて、あまり評価していないのです。ヴェルディはやはり音楽家です。)

ところで、この後、何の御縁か、ネブカドネザルに関する戯曲がもう1つありました。

それは、桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻2年生の卒業公演で、フリードリヒ・デュレンマットの戯曲『天使がバビロンにやってきた』です。

ストーリーのさわりを述べますと、神さまが無からつくりあげた少女クルビは、「いちばん取るに足りない人間」であり、「地球に残存しているただ一人の乞食」であるアッキに与えられるべく、天使とともに人間界にやってきます。

するとそこには、乞食に身をやつしたネブカドネザル王が。

ネブカドネザル王は、本物の乞食アッキと、どちらが「いちばん取るに足らないか」、どちらが乞食術にたけているかという競争をします。

そして、ネブカドネザル王が負けて、天使とともに天からやってきた少女クルビを得るのです。しかし、……。

この後の続きと肝腎のオチは、ここに書いていませんが、この戯曲は、見終わった後、劇として破綻しているのではないか、いやそうでもないのでは? などと、もやもやとして、さまざまな方向から戯曲を検討し、考え込んでしまいました。

思わず『デュレンマット戯曲集 第一巻』(鳥影社)を図書館で借りて、一番最初に出てくる戯曲「聖書に曰く」も読んでしまったほど。

そして、読み終えた結果の感想は、「デュレンマットはおもしろい!」

「聖書に曰く」と「天使がバビロンにやってきた」は、片や(宗教改革初期の急進派といわれ、千年王国の樹立を目指した)再洗礼派の話、片や旧約聖書とシュメール神話といった具合に、具体的な素材は違いますけれども、テーマとしては類似したものを扱っていると感じました。

ちなみに、再洗礼派についての書籍は、たとえば、『千年王国の惨劇―ミュンスター再洗礼派王国目撃録』(平凡社)倉塚平『異端と殉教』(筑摩書房)などがあります。

1536年1月22日に、再洗礼派のミュンスター王と宰相、副官の3人が無残な処刑をされた後、それぞれの死体は3つの鉄の檻に入れられて尖塔に吊され、その死体を鳥がついばんだということです。

3つの鉄の檻は約500年を経た今でも残されており、私たちはたとえば、ウィキペディアの「ミュンスターの反乱」の中の「聖ランベルティ教会の塔の檻」というキャプションが付けられた写真などで確認できます。

デュレンマットの「聖書に曰く」という戯曲は、このミュンスター王と宰相を中心に描いた、史実にもとづくフィクションで、作家の力量を十二分に示していると感じ入りました。

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