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2017年4月の3件の記事

2017/04/28

超一流の育て方 『超一流になるのは才能か努力か?』の教育効果

東ゆみこです。こんにちは。

前回のエントリで、エリクソン教授の超一流になるのは才能か努力か?(文藝春秋)をおすすめしましたが、今日はとくに、その教育効果についての私見を書きます。

超一流になるのは才能か努力か?』を読んでたときに感じたこと。

それは、「超一流」と呼べるものではないけれど、私もこの本に書かれているのと似たようなことを、学生時代の受験勉強でも、現在の大学生の教育でも、行ってきたんだなあと、妙に納得する部分が多くあったということです。

誰しも小さな成功体験から、自分なりに「大きな成功」と呼べるような体験まで、もちろん失敗も含めた、さまざまなことがらを経験するわけです。

私の中にもそうした大小の成功体験があるのですが、今回私がとくに着目したのは、この本の中に書かれている教育効果について。

それは、私の成功体験から引き出せる教訓に、いくつか合致しています。

以前にもこのブログで書きましたが、私は非常勤先の大学の授業で、毎回、履修学生全員に課題を出し、次の授業時間までにレポートを作成し、提出してもらうというスタイルを取っています。

どんな課題かというと、はじめの方では、授業で紹介した分析方法のまとめなどをやってもらいます。

そして、徐々に、後半に行くにしたがって、その分析方法を使って自分で対象を分析するというように、次第にステップアップしていく、というものです。

実は、この方式を始めたきっかけは、履修人数があまりにも多くなりすぎてしまったためでした。

履修人数が多いと、毎回出席を取るのも時間と手間がかかってしまって、授業時間が減り、進行にさしさわりが出てしまう。

さらに、学期末に行う一回のみの試験では、授業内容が学生の中に定着しない。

ということで、学生の出欠確認にもなり、なおかつ授業内容に関する学生の段階的な理解の一助ともなるという理由から、毎回のレポート作成と提出、というスタイルを取ることにしました。

今から、5、6年ほど前のことです。
正直に言えば、「きっと履修人数は減るだろうなあ。私が学生だったら、こんな毎週レポート作成しなくちゃいけない、キツイ授業は履修しない」などと予測していたのです。
が、結果的には、履修人数がさらに増え、それと同時に、それまで以上に質のよいレポートが多く提出されるようになりました。
私自身、自分でやっていて、とても不思議でしたが、その理由について、よくわかっていませんでした。
ところが、『超一流になるのは才能か努力か』の著者が、これと同じような方式、つまり、内容を分割し、学生が一段階ずつステップアップできるような授業をすすめているのです。

たとえば、ブリティッシュ・コロンビア大学の物理学の先生で、2001年にノーベル物理学賞を受賞しているカール・ワイマン教授が、大学の一年生向けに行った授業を、伝統的な授業形態から、以下のような形態に、抜本的に変えるという実験を行いました。

講義計画を作るときには、「学生が何をできるようになっているべきか」を考える方が、「何を知っておくべきか」を考えるよりはるかに効果的だ。

というのも後者は前者についてくるものだからだ。

 ワイマンらは、授業終了後に学生が何をできるようになっているべきかをリストにまとめたうえで、それをいくつもの具体的な学習目標に落とし込んだ。

これも典型的な限界的練習の手法だ。

技能を教えるときにはレッスンをいくつかのステップに分割し、学生が一つずつ習得できるようにして、それを積み重ねていくことで最終目標に到達できるようにするのだ。

(中略)各ステップで学ぶべき心的イメージを明確にし、学生に次のステップに進む前に確実に適切なイメージを身につけさせることに力点を置くことだ。

(『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋、p325。適宜改行を施した。)

このワイマン教授法がたいへんな効果を生み、類似の教授法が「100近い科学と数学の授業に採用され」、学生の「学習の速度と質」が「劇的に改善した」とのことです。

要するに、私が採用していた授業方式は、ワイマン流教育法に類似していたらしいのです。

そして、少なくとも、この方法は学生の理解度の向上に、とても役立つと、私も自信を持って言えます。

 

 

2017/04/22

限界的練習 超一流になるのは才能か努力か? 

最近、私が、授業を履修する学生に対して、「授業には直接関係ないけれど、何かうまくやり遂げたいと思っていることがあるならば、年齢や性別に関係なく、必ず読んだ方がよいのは、コレ!」といって、強く、強く、薦めている本が、『超一流になるのは才能か努力か?』(文藝春秋)です。

この本は、フロリダ州立大学大学心理学部のアンダース・エリクソン教授が、30年以上にわたる自身の実験の結果を、サイエンスライターのロバート・プールとともに、書き起こしたもの。

テーマはずばり、「スポーツ選手、音楽家、チェスプレーヤー、医者、営業マン、教師などそれぞれの分野でエキスパート(達人)として突出した成績をあげる」人たちと、そうでない人たちとの差は何か、です。

確かに、それぞれの分野において、必ず「トップレベル」に位置する人々がいるわけです。

その人たちは、生まれながらにして、その分野のトップになるような才能を持っていて、単に才能が開花しただけなのか。

それとも、後天的な練習(=努力)のたまものなのか。

もし努力の要素が大きいとすれば、それは具体的には、どのような練習を行えばよいのか。

こういうことを調査した結果をまとめた本が、『超一流になるのは才能か努力か?』なのです。

たとえば、私たちは、絶対音感は、音楽の才能を持つ者、たとえばモーツァルトのような、誰が見ても「天才」と判断される者のみが生まれながらにして 有するものなのだと考えてしまいがちです。

しかし、著者は、自身や他の学者が行った実験結果を引用しつつ、次のことを明らかにしていきます。

・ほとんどの人は生まれながらにして絶対音感という才能を持っていること。

・しかるべき練習をすれば、遅かれ早かれ、誰でも絶対音感を身につけられること。

けれども、こんなふうに述べてくると、「子どもの頃からやっていれば、うまくなるよ」という反論も可能ですし、そして、もちろん、子どもの時に始めないと身につけるのがむずかしい能力もあります。

たとえば、バレエダンサーのターンアウトという姿勢、野球の投手のワインドアップ・モーション、テニスプレーヤーのフルスイングのサーブなどは、大人になってから始めたのでは、充分な可動域が確保できないそうです。

が、たとえば、絶対音感などは、訓練次第では、大人でも身につけられる能力であることが述べられています。

しかしながら、この『超一流になるのは才能か努力か?』という本は、子どもの頃からの激しい練習を必要としない分野で成功を収めたい人、あるいは自分自身の子どもや学校教育の現場で、子どもを指導する立場に立っている場合などなどに、たいへん参考になることが書かれています。

語学や資格試験の勉強、スポーツなどの練習、営業などの仕事でよい成績を収めること、年齢的な衰えを感じて心身の健康に役立つことを始めたいと思っている人etcのための本です。

ちなみに、この本の最重要キーワードdeliberate practiceは、 「限界的練習」ということばに訳されています。

むりやりおさまりやすい日本語にした感がありますが、細かくいえば、「目的に沿って、意識的かつ意図的に計画された練習」というような意味になります。

本書を読む際には、「限界的練習」の箇所に少し注意が必要かもしれません。

 

 

2017/04/01

悪の起源

哲学者・黒崎宏先生より、新刊書『悪の起源 ライプニッツ哲学へのウィトゲンシュタイン的理解』(春秋社)をいただきました!

黒崎先生は、なんと今年89歳になられますが、いまだに新著が刊行されるとは!

それはつまり、定年退職後も思索を続けていること、その問題関心がいまだ古びておらず、訴える力を持っていること、等々を意味していると私には思われます。

そういえば、私はやはり89歳で新刊書を出された古典学者の故・西郷信綱先生からも、ご本を頂戴したことがあります。

あの時も「すごいな~」とただただ感嘆しましたが、今回もまったく同じで、なんだか御縁を感じます。

ところで、なぜ私が黒崎先生から御著書を頂戴しているのか、疑問に思った方もいらっしゃると思います。

黒崎先生のお名前は、私の最初の本『クソマルの神話学』(青土社)のあとがき部分に出てくるのですが、そもそもの先生との出会いは今から20年ほども前のこと。

ウィトゲンシュタイン、とくに後期のウィトゲンシュタイン哲学をきちんと勉強したくて、大学院の博士課程の2年生と3年生の時に、なんの事前登録もなし、先生にもなんの事前連絡もなしに、もぐり学生として、成城大学の授業を、一回も休まずに聴講していたのです。

この後、西生田にある日本女子大学の現代社会学科に、(現在の助教にあたる)専任助手として就職したこともあって、先生の授業の聴講はとても残念なことに、2年で終了してしまいました。

が、その2年間の楽しかったこと!

これはお世辞でも何でもなく、まぎれもない私の本音ですが、先生の授業は毎回たいへん密度が濃く、また論理的なので、一言でも聞き漏らすまいと、一生懸命にノートをとったものです。

今回のご本に、黒崎先生ご自身も、哲学者・哲学史家の下村寅太郎の講義にモグリで出席していたと書かれており、これもまた御縁を感じた次第です。

さて、今回、私が最も興味深く感じた箇所は、夏目漱石の有名な「則天去私(天に則って私を去る)」についての解釈。

これは論理的には「去私則天(私を捨て去って、天に則った生活をする)」となるはずだ、と黒崎先生は指摘しているのです。

これを読んで私の頭をよぎったのは、田里亦無(たざと やくむ)の著書『愚者の「さとり」 道元に賭ける』(産業能率大学出版部)の第一章の田里のコメントでした。

実は、漱石の禅の師匠であった鎌倉円覚寺の釈宗演和尚は、のちに漱石に言及した際に、漱石の「則天去私」を、「去私則天」と順番を入れ替えていたというのです。

田里亦無が、宗演のどの本から、このエピソードをとってきたか記していないので、まだ出典を確認していないのですが、黒崎先生の今回のご本から鑑みても、漱石がなぜ「去私則天」とすべきところを「則天去私」の順番にしたのかについては、漱石の思想を探る上で、非常に重要ではないかと気づいたのでした。

黒崎先生のご本は、この漱石への言及を含んだ「老子と荘子」などの新しく書き下ろされた文章のほか、成城大学の紀要などがもとになった「科学者の科学知らず」や「言葉について」「ライプニッツ試論」といった文章も入っています。

また、各章の最後には、書き下ろしのコラムもついているのですが、とくに、最後の「科学の本質」というタイトルのコラムは、短いけれども、科学なるものが、文系の私にも非常によく理解できる秀逸のコラムだと思われます。

なにより、地球の本当の姿は丸ではなく、洋梨の形だという箇所には、「えっ? え――!!」となりました(みなさん、ご存じでしたか? 私は知りませんでした。武満徹の「〇と△の歌」は実際のところ、どうなってしまうのでしょうか。「〇と△の歌」は以下の動画の5:45ぐらいから始まります)。

この事例によって、科学者のみならず私自身も、さまざまなものを無意識のうちに理想化して見ているのだと、よく理解できた次第です。

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