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2017/04/01

悪の起源

哲学者・黒崎宏先生より、新刊書『悪の起源 ライプニッツ哲学へのウィトゲンシュタイン的理解』(春秋社)をいただきました!

黒崎先生は、なんと今年89歳になられますが、いまだに新著が刊行されるとは!

それはつまり、定年退職後も思索を続けていること、その問題関心がいまだ古びておらず、訴える力を持っていること、等々を意味していると私には思われます。

そういえば、私はやはり89歳で新刊書を出された古典学者の故・西郷信綱先生からも、ご本を頂戴したことがあります。

あの時も「すごいな~」とただただ感嘆しましたが、今回もまったく同じで、なんだか御縁を感じます。

ところで、なぜ私が黒崎先生から御著書を頂戴しているのか、疑問に思った方もいらっしゃると思います。

黒崎先生のお名前は、私の最初の本『クソマルの神話学』(青土社)のあとがき部分に出てくるのですが、そもそもの先生との出会いは今から20年ほども前のこと。

ウィトゲンシュタイン、とくに後期のウィトゲンシュタイン哲学をきちんと勉強したくて、大学院の博士課程の2年生と3年生の時に、なんの事前登録もなし、先生にもなんの事前連絡もなしに、もぐり学生として、成城大学の授業を、一回も休まずに聴講していたのです。

この後、西生田にある日本女子大学の現代社会学科に、(現在の助教にあたる)専任助手として就職したこともあって、先生の授業の聴講はとても残念なことに、2年で終了してしまいました。

が、その2年間の楽しかったこと!

これはお世辞でも何でもなく、まぎれもない私の本音ですが、先生の授業は毎回たいへん密度が濃く、また論理的なので、一言でも聞き漏らすまいと、一生懸命にノートをとったものです。

今回のご本に、黒崎先生ご自身も、哲学者・哲学史家の下村寅太郎の講義にモグリで出席していたと書かれており、これもまた御縁を感じた次第です。

さて、今回、私が最も興味深く感じた箇所は、夏目漱石の有名な「則天去私(天に則って私を去る)」についての解釈。

これは論理的には「去私則天(私を捨て去って、天に則った生活をする)」となるはずだ、と黒崎先生は指摘しているのです。

これを読んで私の頭をよぎったのは、田里亦無(たざと やくむ)の著書『愚者の「さとり」 道元に賭ける』(産業能率大学出版部)の第一章の田里のコメントでした。

実は、漱石の禅の師匠であった鎌倉円覚寺の釈宗演和尚は、のちに漱石に言及した際に、漱石の「則天去私」を、「去私則天」と順番を入れ替えていたというのです。

田里亦無が、宗演のどの本から、このエピソードをとってきたか記していないので、まだ出典を確認していないのですが、黒崎先生の今回のご本から鑑みても、漱石がなぜ「去私則天」とすべきところを「則天去私」の順番にしたのかについては、漱石の思想を探る上で、非常に重要ではないかと気づいたのでした。

黒崎先生のご本は、この漱石への言及を含んだ「老子と荘子」などの新しく書き下ろされた文章のほか、成城大学の紀要などがもとになった「科学者の科学知らず」や「言葉について」「ライプニッツ試論」といった文章も入っています。

また、各章の最後には、書き下ろしのコラムもついているのですが、とくに、最後の「科学の本質」というタイトルのコラムは、短いけれども、科学なるものが、文系の私にも非常によく理解できる秀逸のコラムだと思われます。

なにより、地球の本当の姿は丸ではなく、洋梨の形だという箇所には、「えっ? え――!!」となりました(みなさん、ご存じでしたか? 私は知りませんでした。武満徹の「〇と△の歌」は実際のところ、どうなってしまうのでしょうか。「〇と△の歌」は以下の動画の5:45ぐらいから始まります)。

この事例によって、科学者のみならず私自身も、さまざまなものを無意識のうちに理想化して見ているのだと、よく理解できた次第です。

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