愛するものを燃やす火:斎藤茂吉『赤光』の「死にたまふ母」
ここのところ、当ブログでは俳句や短歌などを少しずつ紹介しておりますが、文学作品の選定については、「四苦八苦といった人間の苦しみや煩悩(ぼんのう)を描いていて仏教的である」という勝手な基準を設けております。
そのため、カテゴリのタイトルが「仏教の門」となっています。
四苦八苦とは何か、煩悩とは何か、ということはまた別の機会に書こうと思いますが、現在連載中の齋藤茂吉の『赤光』の「死にたまふ母」の部分は、まぎれもなく四苦八苦のうちの「愛別離苦(あいべつりく)」、すなわち「愛する者と別れる苦しみ」を描いています。
そして、本日は、悲しみの中にありながらも、別れの儀式にかかわらざるを得ない肉親のつらさをも詠んだ歌を紹介したいと思います。
わが母を 焼(や)かねばならぬ火を持てり 天(あま)つ空(そら)には見るものもなし
星のゐる夜ぞらのもとに赤赤(あかあか)と ははそはの母は燃えゆきにけり
さ夜ふかく母を葬(はふ)りの火を見れば ただ赤くもぞ燃えにけるかも
はふり火を守りこよひは更けにけり 今夜(こよひ)の天(てん)のいつくしきかも
(斎藤茂吉『赤光』新潮文庫、p46-47)
この一連の歌を読んだ時、夫の母の葬儀で火葬の点火ボタンを死者の配偶者である父自身が押していたことや、チベットの鳥葬の風習などが思い起こされました。
ハインリヒ・ハラーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の中には、チベットの貴族や高位のラマの遺骸は火葬である一方、民衆の葬儀では遺体を切り刻み、鳥や魚に食べさせるという役割をになう人たちがいるという記載が出てきます(ハインリヒ・ハラー『セブン・イヤーズ・イン・チベット』角川書店、1997年、p101-102)。
これを読んだ時はとてもショックだったのですが、最近は、愛する者への執着を断つという意味において、非常に重要な儀礼なのだと思うようになりました。
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