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2021年8月の2件の記事

2021/08/31

生のいぶき

これまでかなり長く斎藤茂吉の歌を紹介してきました。

今回からは、少し趣向を変えて、与謝蕪村(よさ ぶそん)の俳句です。

蕪村というと、とても有名な、以下のような俳句が思い浮かぶかもしれません。

 

 春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな

 なの花や 月は東に 日は西に

 さみだれや 大河を前に家二軒

 月天心(てんしん) 貧しき町を通りけり

 (「月が天心に高く照る夜半、貧しい町を通り過ぎたなあ。」玉城司氏による口語訳)


蕪村の句はよく絵画的といわれますが、上記の句を読むと、確かに風景が目に前にありありと浮かんできます。

そこで、まずは上記の句のように絵画的であり、さらに生と死が対照的に扱われているように思われる句から紹介を始めたいと思います。

 

 愁(うれ)ひつゝ 岡にのぼれば花いばら

 (「親しい人が亡くなった。愁いを抱いて、岡に上ると花茨が咲いている。」玉城司氏による口語訳に、筆者の説明を追記している。

  与謝蕪村、玉城司訳注『蕪村句集』角川ソフィア文庫、p209)

 

 水仙や 寒き都のこゝかしこ

 (「水仙が咲いているよ。寒い都のあちらこちら」玉城司氏による口語訳。

  与謝蕪村、玉城司訳注『蕪村句集』角川ソフィア文庫、p361)

 

なんだか、いいですね。

灰色の世界にあって白や黄色の色を見つけたことで、行き詰まりの中にあっても、次々と小さな希望を見つけ出していくような、そんな感じがします。

 

2021/08/22

生者必滅、会者定離のかなしみ

少し間が空いてしまいましたが、仏教が感じられるような文学作品(とくに、短歌や俳句)を紹介する連載を続けます。

今回のテーマは、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。

この世に生を受けたものは必ず滅び、出会ったものとは必ず別れるという教えですが、頭では理解していても、人は死や別れに際して、かなしみや寂しさを感じます。

このかなしみを詠んだ『赤光』の歌5首を紹介して、斎藤茂吉はいったん終了したいと思います。

 

  いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを

  ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我(わ)が寂しさは極まりにけり

 

  灰のなかに母をひろへり 朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに母をひろへり(以上、「死にたまふ母」より)

 

  なに故に花は散りぬる理法(ことわり)と人はいふとも悲しくおもほゆ

 

  よひよひの露冷えまさる遠空を こほろぎの子らは死にて行くらむ(以上、「細り身」より)

 

年老いた母親はいずれ死ぬ。自分もいずれ死ぬ。そんなことはわかりきっているのに、いざその時がやってくると、このうえないさびしさを覚えたり。

母親はすでに灰になっていて、生前の姿形をとどめていないのに、その灰の中に、母親を見たり。

咲く花はいつか散るのだとわかっていても悲しくなったり、冬が近づいてコオロギの子の死が思われたり。

これらの歌をあじわうと、私たちはあらゆるものが変化することを知っているのに、なぜ変化にかなしさを覚えるのだろうか、としんみりと考えこんでしまいました。

ちなみに、上記の5首のうち、『赤光』の中では最初の2首は連続して掲載されていますが、残りの歌は断続的に掲載されているのを、このブログでは、今回のテーマに沿った歌を選び、並べて掲載しました。

 

 

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