生者必滅、会者定離のかなしみ
少し間が空いてしまいましたが、仏教が感じられるような文学作品(とくに、短歌や俳句)を紹介する連載を続けます。
今回のテーマは、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。
この世に生を受けたものは必ず滅び、出会ったものとは必ず別れるという教えですが、頭では理解していても、人は死や別れに際して、かなしみや寂しさを感じます。
このかなしみを詠んだ『赤光』の歌5首を紹介して、斎藤茂吉はいったん終了したいと思います。
いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを
ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我(わ)が寂しさは極まりにけり
灰のなかに母をひろへり 朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに母をひろへり(以上、「死にたまふ母」より)
なに故に花は散りぬる理法(ことわり)と人はいふとも悲しくおもほゆ
よひよひの露冷えまさる遠空を こほろぎの子らは死にて行くらむ(以上、「細り身」より)
年老いた母親はいずれ死ぬ。自分もいずれ死ぬ。そんなことはわかりきっているのに、いざその時がやってくると、このうえないさびしさを覚えたり。
母親はすでに灰になっていて、生前の姿形をとどめていないのに、その灰の中に、母親を見たり。
咲く花はいつか散るのだとわかっていても悲しくなったり、冬が近づいてコオロギの子の死が思われたり。
これらの歌をあじわうと、私たちはあらゆるものが変化することを知っているのに、なぜ変化にかなしさを覚えるのだろうか、としんみりと考えこんでしまいました。
ちなみに、上記の5首のうち、『赤光』の中では最初の2首は連続して掲載されていますが、残りの歌は断続的に掲載されているのを、このブログでは、今回のテーマに沿った歌を選び、並べて掲載しました。
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