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2021/08/22

生者必滅、会者定離のかなしみ

少し間が空いてしまいましたが、仏教が感じられるような文学作品(とくに、短歌や俳句)を紹介する連載を続けます。

今回のテーマは、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。

この世に生を受けたものは必ず滅び、出会ったものとは必ず別れるという教えですが、頭では理解していても、人は死や別れに際して、かなしみや寂しさを感じます。

このかなしみを詠んだ『赤光』の歌5首を紹介して、斎藤茂吉はいったん終了したいと思います。

 

  いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを

  ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我(わ)が寂しさは極まりにけり

 

  灰のなかに母をひろへり 朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに母をひろへり(以上、「死にたまふ母」より)

 

  なに故に花は散りぬる理法(ことわり)と人はいふとも悲しくおもほゆ

 

  よひよひの露冷えまさる遠空を こほろぎの子らは死にて行くらむ(以上、「細り身」より)

 

年老いた母親はいずれ死ぬ。自分もいずれ死ぬ。そんなことはわかりきっているのに、いざその時がやってくると、このうえないさびしさを覚えたり。

母親はすでに灰になっていて、生前の姿形をとどめていないのに、その灰の中に、母親を見たり。

咲く花はいつか散るのだとわかっていても悲しくなったり、冬が近づいてコオロギの子の死が思われたり。

これらの歌をあじわうと、私たちはあらゆるものが変化することを知っているのに、なぜ変化にかなしさを覚えるのだろうか、としんみりと考えこんでしまいました。

ちなみに、上記の5首のうち、『赤光』の中では最初の2首は連続して掲載されていますが、残りの歌は断続的に掲載されているのを、このブログでは、今回のテーマに沿った歌を選び、並べて掲載しました。

 

 

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