人生の春の暮れ
与謝蕪村の句を紹介すること、その2回め。
今回は、春について詠んだ蕪村の句を3句、私の視点で並べ直してみました。
寝ごゝろや いづちともなく 春は来ぬ
(玉城司氏による口語訳:たゆたうような寝心地の快さ、どこからともなく春が来ていた。)
うたゝ寝の さむれば 春の日くれたり
(玉城司氏による口語訳:うたた寝から覚めて、ぼんやりしていると、春の日が暮れてしまった。)
ゆく春や 逡巡(しゅんじゅん)として 遅ざくら
(玉城司氏による口語訳を若干変えている:去って行く春よ。ためらいがちに咲く遅桜。)
これらの句は、単独のものとしては、上記に書いたような意味に読めるわけですが、こうやって並べ直して連続して読んでみると、上記の解釈とはまた違う読み方もできそうです。
たとえば、
眠っているうちに、どこからともなく人生の春がやってきていた。
しかし、うたた寝から覚めてみたら、春の日が暮れてしまっていた。
気づいたら、ぼんやりしている間に、春は過ぎ去ろうとしている。
そんな中、遅咲きの桜の私は、今から、ためらいがちに人生の花を咲かそうとしている。
というような感じでしょうか。
歌や句は、その並べ方によって、さまなざま意味に読めるようです。
今回の句は、「春」を人間の歴史だとか、古い世代から若い世代への交代だとか、個々の人生の栄枯盛衰といったような、時の移ろいの比喩に読み込むことが可能で、興味深く思った次第です。