『万葉集』の中の無常
前回のエントリ「今と昔がつながっていること」の連想として、今回は、時代を一気にさかのぼり、『万葉集』の歌を取り上げてみたいと思います。
『万葉集』の中にも、(あまり多くないように私には思われるのですが)仏教的な歌が散見されます。
そこで、今回は『万葉集』の中に詠まれている無常をテーマに、歌を3首、紹介します。
(1)世間(よのなか)を常(ねつ)なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば【巻第六】
(伊藤博氏による口語訳:世の中とは何とはかないものかということを、今こそ思い知った。この奈良の都が日ごとにさびれてゆくのを見ると。)
(2)巻向(まきむく)の山辺(やまへ)響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人我(わ)れは【巻第七】
(伊藤博氏による口語訳を若干改変:巻向山のほとりを鳴り響かせて流れ行く川、その川面の水泡のようなものだ。うつせみの世の人であるわれらは。)
(3)こもりくの泊瀬(はつせ)の山に照る月は満ち欠けしけり人の常(つね)なき【巻第七】
(伊藤博氏による口語訳:あの泊瀬の山に照っている月は、満ちたり欠けたりしている。ああ、人もまた不変ではありえないのだ。)
(1)の歌は、華やかだった場所がすさんだことを歌い、(2)と(2)は人間もいつか死を迎える存在であることを詠んでいます。
これを読むと、水泡のような存在である人間、そして人のすみかの無常について述べた、あの有名な、鴨長明の『方丈記』の冒頭部分が思い起こされました。
そこで、『方丈記』を取り出し、冒頭部分を再読しましたが、、、、やはり、有名なだけあって、いいですね。
ここにも掲載しておきます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀(よど)みに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまる例(ためし)なし。
世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき人の住(すま)ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔(むか)しありし家は稀(まれ)なり。
或(あるい)は去年(こぞ)焼けて今年作れり。
或は大家(おほいへ)亡(ほろ)びて小家(こいへ)となる。
住む人もこれに同(おな)じ。
所も変(かは)らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝(あした)に死し、夕(ゆふべ)に生るゝならひ、たゞ水の泡(あわ)にぞ似たりける。
不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方(いづかた)へか去る。
また不知(しらず)、仮の宿(やど)り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜(よろこ)ばしむる。
その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争(あらそ)ふさま、いはゞ朝顔の露に異(こと)ならず。
或は露落(お)ちて花残(のこ)れり。残(のこ)るといへども朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕(ゆふべ)を待つ事(こと)なし。
【『方丈記 徒然草』西尾實校注、日本古典文学大系、岩波書店、1957年】
私が参照した『方丈記』は、岩波書店の日本古典文学大系ですが、以下では岩波文庫版を載せておきます。