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2022/03/04

別れはすぐ近く

かなり間があいてしまいましたが、少しずつ、稿を進めていきたいと思います。

今日のテーマは、「別れはすぐ近くにある」。

芭蕉の句から、二句、紹介したいと思います。

 

  頓(やが)て死ぬけしきは見えず蝉の声

   (玉城司氏による口語訳:間もなく死んでしまうのに、そんな様子はまったく見えず、蝉が鳴きしきっている。)

 

  行春や鳥啼(とりなき)魚(うを)の目は泪(なみだ)

   (玉城司氏による口語訳:行き過ぎる春を惜しんで鳥は鳴き、魚の目にも涙が見える。)

 

上記の二句に共通しているのは、蝉も、春も、今が盛りで、自分たちがもうすぐ姿を消すことを自覚していなさそうに見えるのだが、それを見ているこちら側は、その盛りやその命がじきに終わってしまうことを感じているということだと思います。

実は、いま、私の母があと数ヶ月で亡くなろうとしています。

コロナのため、母に面会できないのですが、入院の前には食欲があり、ぱくぱくご飯を食べていたというのを聞くと、母はいま自分が亡くなることを感じているのかな、などとふと考えたりします。

その一方で、私自身、元気に毎日の生活を送っているわけですが、そんな私の背後にも、いつのまにか、知らない間に、死が忍び寄ってきているのかもしれません。

そんなことをつらつらと考えていると、『徒然草』の第百五十五段の終わりの部分に、似たようなことが書かれているのを思い出しました。

そこで、以下で『徒然草』の当該箇所とその口語訳を紹介したいと思います。

読みやすくするため、一文ごとに改行します。

まずは、原文から。

 

  四季は、なほ、定まれる序(ついで)あり。

  死期は(しご)は序(ついで)を待たず。

  死は前よりしも来(きた)らず、かねて後ろ(うしろ)に迫(せま)れり。

  人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。

  沖(おき)の干潟(ひかた)遥(はる)かなれども、磯(いそ)より潮(しほ)の満つるが如し。

    (以上、『現代語訳対照 徒然草』安良岡康作訳注、旺文社文庫、1971年、p260)

 

なお、この部分、安良岡康作氏による口語訳では以下のようになっています。

 

  四季の変化は、それでもやはり、きまった順序がある。

  が、人の死ぬ時は、順序を待たないで、突然やってくるものなのだ。

  その死は、前方からと限ってやって来るものではなくて、それよりさきに、人の背後に接近しているのだ。

  人間はみな、自分に死のあることがわかっていながら、それほどにも、死を待ち迎えることが切迫していない状態でいる時に、死は不意に到来するのだ。

  それは、ちょうど、沖の方の干潟(ひがた)が遠くに見えるけれども、潮のさす時は、海辺の磯から潮が満ちてくるようなものである。

     (以上、『現代語訳対照 徒然草』安良岡康作訳注、旺文社文庫、1971年、p261)

  

子どものとき、何も気にしないで時間の経つのも忘れて海の中にいると、あるとき、あっという間に、潮が満ちてきて、抵抗できずに、のみこまれそうになるかのような恐怖を覚えたという経験がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

潮にとらえられる前になんとか浜に上がればいいんだ、注意深さを忘れなきゃいいんだとは思うものの、それでも、いつか潮に呑み込まれるときがやってきます。

 

 

私が引用した『徒然草』の本は、amazonになかったので、別の本を掲載しておきました。

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