卵の思い出―サトウハチローの詩―
詩歌を仏教的な観点やテーマから読み直す『仏教の門』。
今日は、時代をぐーっと下って、サトウハチローを取り上げてみたいと思います。
サトウハチローは、童謡「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」や、歌謡曲「リンゴの歌」「長崎の鐘」などの詞で有名な詩人ですが、折に触れて母に関する詩を詠んでいます。
そのなかから私が選んだのは、「生卵は」という少し変わったタイトルの、以下の詩です。
生卵は
生卵(なまたまご)は
のどがいがらっぽくなるからいや
うで卵は
おならくさい
こんなことをいって
卵をひとつもたべなかった母
わたしが母の命日(めいにち)に
沢山(たくさん)卵をそなえるのは
そのウソに頭を下げたいからなのです
(サトウハチロー2007「母の思い出」『サトウハチロー詩集』角川春樹事務所:49-50)
最初に読んだときの感想は、「あれ? 第一連(最初のかたまり)と第二連(二つめのかたまり)がつながっていない?」。
ところが、最後の行「そのウソに頭を下げたい」を、もう一度ゆっくり味わうようにして、その意味を考えてみると、この詩はイメージを一変させ、急に愛情深く映るようになってきます。
詩中の「母」は、当時高級品であった卵が大好きで、きっとお腹いっぱい食べたかったに違いありません。
それなのに、「母」は、「のどがいがらっぽくなる」「おならくさい」などとケチをつけるふりをして自分は1コも食べず、育ち盛りの子どもに遠慮なく好きなだけ食べてもらおうとしたのでしょう。
子どものほうは、母のウソをウソだとは思わず、遠慮なく、ぱくぱく食べたのでしょう。
大人になった「わたし」は、いつの頃からか、母の卵嫌いがウソだったことを知ったのでしょう。
そして、「わたし」は、命日ごとに、子どものころの母親のウソをなつかしみ、母の愛情に、ただ黙って「頭を下げる」。
こういう詩です。
当時は気づかなかった愛や思いやりを、ずっと後になって、もうその人と二度と会うことがないころになって、初めて理解することがあります。
まるでお母さんからもらった卵をずっとあたためていたら、あるとき、ひな鳥がかえったかのように。
思いやりや慈しみの心がじんわりと伝わってくる名作だと思います。



















