カテゴリー「私の勉強法・道具箱」の35件の記事

2017/04/28

超一流の育て方 『超一流になるのは才能か努力か?』の教育効果

東ゆみこです。こんにちは。

前回のエントリで、エリクソン教授の超一流になるのは才能か努力か?(文藝春秋)をおすすめしましたが、今日はとくに、その教育効果についての私見を書きます。

超一流になるのは才能か努力か?』を読んでたときに感じたこと。

それは、「超一流」と呼べるものではないけれど、私もこの本に書かれているのと似たようなことを、学生時代の受験勉強でも、現在の大学生の教育でも、行ってきたんだなあと、妙に納得する部分が多くあったということです。

誰しも小さな成功体験から、自分なりに「大きな成功」と呼べるような体験まで、もちろん失敗も含めた、さまざまなことがらを経験するわけです。

私の中にもそうした大小の成功体験があるのですが、今回私がとくに着目したのは、この本の中に書かれている教育効果について。

それは、私の成功体験から引き出せる教訓に、いくつか合致しています。

以前にもこのブログで書きましたが、私は非常勤先の大学の授業で、毎回、履修学生全員に課題を出し、次の授業時間までにレポートを作成し、提出してもらうというスタイルを取っています。

どんな課題かというと、はじめの方では、授業で紹介した分析方法のまとめなどをやってもらいます。

そして、徐々に、後半に行くにしたがって、その分析方法を使って自分で対象を分析するというように、次第にステップアップしていく、というものです。

実は、この方式を始めたきっかけは、履修人数があまりにも多くなりすぎてしまったためでした。

履修人数が多いと、毎回出席を取るのも時間と手間がかかってしまって、授業時間が減り、進行にさしさわりが出てしまう。

さらに、学期末に行う一回のみの試験では、授業内容が学生の中に定着しない。

ということで、学生の出欠確認にもなり、なおかつ授業内容に関する学生の段階的な理解の一助ともなるという理由から、毎回のレポート作成と提出、というスタイルを取ることにしました。

今から、5、6年ほど前のことです。
正直に言えば、「きっと履修人数は減るだろうなあ。私が学生だったら、こんな毎週レポート作成しなくちゃいけない、キツイ授業は履修しない」などと予測していたのです。
が、結果的には、履修人数がさらに増え、それと同時に、それまで以上に質のよいレポートが多く提出されるようになりました。
私自身、自分でやっていて、とても不思議でしたが、その理由について、よくわかっていませんでした。
ところが、『超一流になるのは才能か努力か』の著者が、これと同じような方式、つまり、内容を分割し、学生が一段階ずつステップアップできるような授業をすすめているのです。

たとえば、ブリティッシュ・コロンビア大学の物理学の先生で、2001年にノーベル物理学賞を受賞しているカール・ワイマン教授が、大学の一年生向けに行った授業を、伝統的な授業形態から、以下のような形態に、抜本的に変えるという実験を行いました。

講義計画を作るときには、「学生が何をできるようになっているべきか」を考える方が、「何を知っておくべきか」を考えるよりはるかに効果的だ。

というのも後者は前者についてくるものだからだ。

 ワイマンらは、授業終了後に学生が何をできるようになっているべきかをリストにまとめたうえで、それをいくつもの具体的な学習目標に落とし込んだ。

これも典型的な限界的練習の手法だ。

技能を教えるときにはレッスンをいくつかのステップに分割し、学生が一つずつ習得できるようにして、それを積み重ねていくことで最終目標に到達できるようにするのだ。

(中略)各ステップで学ぶべき心的イメージを明確にし、学生に次のステップに進む前に確実に適切なイメージを身につけさせることに力点を置くことだ。

(『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋、p325。適宜改行を施した。)

このワイマン教授法がたいへんな効果を生み、類似の教授法が「100近い科学と数学の授業に採用され」、学生の「学習の速度と質」が「劇的に改善した」とのことです。

要するに、私が採用していた授業方式は、ワイマン流教育法に類似していたらしいのです。

そして、少なくとも、この方法は学生の理解度の向上に、とても役立つと、私も自信を持って言えます。

 

 

2017/04/22

限界的練習 超一流になるのは才能か努力か? 

最近、私が、授業を履修する学生に対して、「授業には直接関係ないけれど、何かうまくやり遂げたいと思っていることがあるならば、年齢や性別に関係なく、必ず読んだ方がよいのは、コレ!」といって、強く、強く、薦めている本が、『超一流になるのは才能か努力か?』(文藝春秋)です。

この本は、フロリダ州立大学大学心理学部のアンダース・エリクソン教授が、30年以上にわたる自身の実験の結果を、サイエンスライターのロバート・プールとともに、書き起こしたもの。

テーマはずばり、「スポーツ選手、音楽家、チェスプレーヤー、医者、営業マン、教師などそれぞれの分野でエキスパート(達人)として突出した成績をあげる」人たちと、そうでない人たちとの差は何か、です。

確かに、それぞれの分野において、必ず「トップレベル」に位置する人々がいるわけです。

その人たちは、生まれながらにして、その分野のトップになるような才能を持っていて、単に才能が開花しただけなのか。

それとも、後天的な練習(=努力)のたまものなのか。

もし努力の要素が大きいとすれば、それは具体的には、どのような練習を行えばよいのか。

こういうことを調査した結果をまとめた本が、『超一流になるのは才能か努力か?』なのです。

たとえば、私たちは、絶対音感は、音楽の才能を持つ者、たとえばモーツァルトのような、誰が見ても「天才」と判断される者のみが生まれながらにして 有するものなのだと考えてしまいがちです。

しかし、著者は、自身や他の学者が行った実験結果を引用しつつ、次のことを明らかにしていきます。

・ほとんどの人は生まれながらにして絶対音感という才能を持っていること。

・しかるべき練習をすれば、遅かれ早かれ、誰でも絶対音感を身につけられること。

けれども、こんなふうに述べてくると、「子どもの頃からやっていれば、うまくなるよ」という反論も可能ですし、そして、もちろん、子どもの時に始めないと身につけるのがむずかしい能力もあります。

たとえば、バレエダンサーのターンアウトという姿勢、野球の投手のワインドアップ・モーション、テニスプレーヤーのフルスイングのサーブなどは、大人になってから始めたのでは、充分な可動域が確保できないそうです。

が、たとえば、絶対音感などは、訓練次第では、大人でも身につけられる能力であることが述べられています。

しかしながら、この『超一流になるのは才能か努力か?』という本は、子どもの頃からの激しい練習を必要としない分野で成功を収めたい人、あるいは自分自身の子どもや学校教育の現場で、子どもを指導する立場に立っている場合などなどに、たいへん参考になることが書かれています。

語学や資格試験の勉強、スポーツなどの練習、営業などの仕事でよい成績を収めること、年齢的な衰えを感じて心身の健康に役立つことを始めたいと思っている人etcのための本です。

ちなみに、この本の最重要キーワードdeliberate practiceは、 「限界的練習」ということばに訳されています。

むりやりおさまりやすい日本語にした感がありますが、細かくいえば、「目的に沿って、意識的かつ意図的に計画された練習」というような意味になります。

本書を読む際には、「限界的練習」の箇所に少し注意が必要かもしれません。

 

 

2017/02/06

情報処理技術としての読書法:速読/遅読、多読/精読(2)

前回のエントリでは、明治末ごろに、「成功」するためには「現代」に即した「読書法」が必要であり、その「妙諦」は、「速読/遅読」もしくは「多読/精読」というような二項対立のうちの片方、もしくは両方ができるようになることだったらしいことが、雑誌『成功』の臨時増刊号である『現代読書法』からうかがえる旨を記しました。

たとえば、『現代読書法』の最初に出てくる戸水寬人(とみず ひろんど)。

彼は、今でいう東大法科の教授で、いわゆる大学の自治、言論の自由の観念のさきがけとなった事件を引き起こした人物として有名です。

その事件を要約しますと、日露戦争前、戸水は「バイカルまで奪え」とロシアに対する強硬論を張り、政府と対立した結果、政府が彼を休職処分にしたのですが、それに反発した東大の教授陣が総辞職を宣言、ついには文部大臣が辞職し、戸水は復職したという出来事がありました。

この事件で有名な戸水が、幸田露伴、夏目漱石、島村抱月らをおさえて、『現代読書法』という特集号の一番最初に掲載されているのですね。

そして、興味深いのは、この記事の中で、戸水が「読書法の秘鑰(ひやく=「神秘を明らかにする手がかり」のこと)を握」ったも同然として推奨している方法が、「速読/遅読」もしくは「多読/精読」の枠組みでとらえられる方法なのです。

具体的にいいますと、戸水は、書籍には3種類あるといいます。

第1の書籍は、「多大の労力と時間とをかけて熟読精読し、其間(そのかん)沈思黙考して書中のものを直ちに我ものに同化しつつ読行(よみゆ)くもの」。

第2の書籍は、「稍(やや)些(すこ)しの時間を費(ついや)し些(すこ)しく精読すべき書」。

第3の書籍は、「十行倶(とも)に下る底の快速力を以てし、一書を読むこと左乍(なが)ら大河を決して一時に下らしむる如きの勢を以て速読すべき書」。

そして、戸水は、まずは読もうとする本がこの3種類の書籍のどれにあたるのかを区別して、この3つの態度を使い分けて読んでいくという「妙理」を用いるならば、読書法の真理を握ったことになる、と書いています。

戸水は、読書法として上記の3種類を挙げていますが、要は本の種類、情報の性格によって、「速読/遅読」もしくは「多読/精読」を使い分けろ、ということになります。

2017/01/13

情報処理技術としての読書法:速読/遅読、多読/精読(1)

前回、鶴見祐輔がすすめ、山口昌男も実践した「赤鉛筆・青鉛筆読書法」を紹介いたしました。

ちなみに、「赤鉛筆・青鉛筆読書法」とは、一言でいえば、一冊の本を、ときに批判を交えながら、じっくり精読する方法ということになります。

ところで、この「精読」、従来は「精読/多読」、もしくは「遅読/速読」という対概念の中で、よく論じられてきました。

どちらに重きを置くべきなのか、あるいは、どちらもやるべきなのか、ということについて、これまで、いろいろな人がいろいろなことを言ってきたのです。

そして、これは、「読書法」が論じられる際の中心テーマのひとつとも言えます。

たとえば、明治39(1906)年に成功雑誌社から出版された『成功』という雑誌の秋期臨時増刊号のタイトルは、『現代読書法』。

ここから判断すると、明治末ごろ、「成功」するためには「読書法」が、もっといえば、「現代」という時代に即した「読書法」が必要であるという考え方が問題となっていたということが分かります。

成功のための読書法という視点は、近代的な読書法の誕生と関係がありそうです。(これについては、連載の後で触れる予定です。)

さて、 この『現代読書法』という特集号では、さまざまな著名人が自分自身の読書法について述べています。

私たちになじみ深い人物では、幸田露伴、島村抱月、大隈重信、さらには夏目漱石といった名前もあります。

ちなみに、この『現代読書法』という特集号。

現物を置いている図書館を、私の調査では、みつけられませんでした。

(漱石の書いた記事は、『漱石全集』にも載っていますが、そのおおもとである『成功』という雑誌の『現代読書法』という特集号の現物が今のところ、みあたらないという意味です。)

しかし、な、な、な~んと、私の手元に、その雑誌の現物があるのです

Photo

この雑誌は、20数年前に古書目録で見つけて落札したものです。

ちなみに、本日(1月13日)日本の古本屋のサイトで検索したところ、「外装が欠」の状態ですが、一冊だけ売っていました。

このお宝雑誌には、全部で41編の「読書法」が載っているのですが、話を元に戻しますと、ほとんどの人物がさかんに論じているのが、「精読/多読」「遅読/速読」のテーマなのです。

どんな内容か、そこから何が見えてくるか、次回以降、書いてみたいと思います。

2016/10/11

情報処理技術としての読書法:赤鉛筆、青鉛筆で線を引く(2)

山口昌男も実践した、赤や青で線を引きながら本を読む方法。

この方法は「読書法」なるものの王道のひとつと呼べるかもしれません。

たとえば、鶴見和子・俊輔の父親であり、政治家・著述家であった鶴見祐輔は、1936(昭和11)年に刊行された『読書三昧』(大日本雄弁会講談社)の中で、こう述べています。

(前略)我々が読書して有益であるのは、自分より優れたる人々の書を読む場合である。

何等かの点に於いて、自分より勝りたる人の著書なればこそ、我々は敬意を払ってこれを読むのである。

既に我々より優れたる人の著書である以上、これに対し批判力を働かすことはまことに困難である。

ゆえに批判しつつ読書するということは、我々が考えるよりは遥かにむつかしいことである。

しかしそれが読書の際、最も大切なことである。殊に若き日に於いては、批判力が発達していないから、尚更(なおさ)らむつかしい。

それには一つの方法がある。

それは線を引き、書き入れをすることである。

出来るならば、赤と青との色鉛筆で、自分の感じたるところに傍線又は下線を施し、紙の余白に、自分の意見を書いておくことである。

私はこの外(ほか)に、読んだ日附と場所とを記しておく。

それは数年後に再読して、以前の自分と今日の自分とを比較し、退歩せるや進歩せるやを知るに便せん為めである。

朱線青線を引きつつ読書する習慣をつけると、我々は勢い批判しつつ読むようになる。

そして線の種類を色々に工夫しておくと、殊更(ことさら)に注意深く読むようになる。

例えば、文章のよいところは朱線、内容のよいところは青線と決める。

その次には、最もよいところは字の側に一字々々(いちじ いちじ)円(まる)を附し、その次は点を附し、その次は線、その次は余白に線を引くとすると、そこに四種類の別が生じる。

その四つの区別―それが赤と青で八種類になる―を付けながら本を読むとなると、油断も隙もなくなる。

批判力がいつも尖鋭に働くことになる。

しかもその上に、余白に批評文を書くのであるから、仕事は更に多い。

それは一見、あまりに複雑のようである。しかし一年も習慣をつけると、少しも苦痛を感じなくなる。

終(しまい)には新聞を見ていても、朱線青線が引きたくなる位である。

殊にこの線を引く読書法の利益は、一読後は、重要部分が悉(ことごと)く頭に残ることである。

一読して後、その書中の朱線青線のところだけ、簡単に読み直しておけば、自分がこの書より何を学びしやが、明瞭に頭に残る。

又後にこの書から引用しようと思う時などは、その線のあるところだけを、卒読(そつどく)すればよいことになるから、二度読みの手数が省ける。

(旧漢字と歴史的仮名遣いは新漢字と現代仮名遣いに変換し、適宜、行替えを施しています)。

なんだか読んでいるだけで疲れてしまいそうな、緻密すぎる方法です。

(ちなみに、鶴見祐輔の息子である鶴見俊輔氏自身が出した蔵書を、高田馬場の古書店で発見したことがありましたが、(山口昌男ばりに)本の中に線がめちゃくちゃ引いてありました。

今は、あの本、買っておけばよかったなと後悔していますが、その当時、あまりにも線の引き方が汚く、これでは読みたくないと思って、買うのを躊躇してしまったのです。

いずれにしても、対照的な性格の親子とお見受けしました。)

ところで、鶴見祐輔のコメントを読むと、赤や青で線を引いたり、コメントを施したり、という作業が何に関係しているかというと、

・批判的な読書

・一冊の本を注意深く読むこと(いわゆる精読)

・本の内容を記憶すること

であることがわかります。

近年では、赤と青の二色に、緑色を足した三色ボールペン法が、齋藤孝氏の『三色ボールペンで読む日本語』(角川文庫)や、『三色ボールペン情報活用術』(角川書店)といった本の中で提唱されて、実践された方も多いのではないかと思います。

一方、齋藤氏の本に対する読者コメントを見ていると、電子書籍で、どうやって色を変えて、線を引いたり、コメントしたりするのか、というものがありました。

これは単純に電子書籍の技術が、いまだ人間に手による作業に追いついていないということを示しているだけでないと私は思うのです。

つまりは、デジタル時代の人間が重視する読書における価値は、批判的読書や精読、本の内容を記憶することといった、80年前の読書で重視されていた価値と異なったものであるということなのかもしれません。

2016/10/03

情報処理技術としての読書法:赤鉛筆、青鉛筆で線を引く(1)

書籍はデジタルに完全に移行するのでしょうか。それとも、紙の本はまだしばらく残っていくのでしょうか。

いずれにせよ、デジタルに完全に移行する前の、過渡期の時代に生きている私たちは、気がつかないうちに、アナログ時代の情報処理技術に頼っていることがあります。

(というよりも、アナログの手法の「延長」に、デジタルがあると私は思っているのですが、それについてはいずれ書きたいと思います。)

たとえば、今回のテーマである、本に赤鉛筆、青鉛筆で線を引く方法。

これなどは、アナログ時代の人々が、ただ文字や写真、挿絵などが並ぶ平板な書物を、いかに自分にとって重要な情報を目立たせ、記憶にとどめ、あとから見直したときにすぐに引き出せることを目指した工夫のあと、すなわち読書法の一種です。

ちなみに、古今東西の書籍を収集・読解し、世界中を歩き回ったアナログの天才、故・山口昌男先生は、生前、赤鉛筆と青鉛筆が上下にくっついている「赤青鉛筆」を手に持ち、あるときは赤鉛筆で、またあるときは(鉛筆をくるっとひっくり返して)青鉛筆で、縦横無尽に、本に線をひきまくっていました。

中には、一冊ウン万円の貴重書も!

山口先生にとっては本は骨董品ではなく、情報を与えてくれるものにすぎないのでした。

そういえば、元平凡社の編集者、そして後に札幌大学文化学部教授になる石塚純一氏があるとき、『誰か、札幌大学にある山口文庫の蔵書に、山口先生がひきまくっている赤線と青線の色の違いの意味について、分析してくれないかな?」と話していたことがあります。

しかし、後年、山口先生は、鉛筆で線を引く握力が弱まり、赤青鉛筆を、黄色のラインマーカーに変えました。

これについては、傑作なエピソードがあって、線を引いている本のページを、私がのぞきこんだところ、本は一面、真っ黄色!

どこもかしこも、じゃんじゃか、じゃんじゃか、ラインマーカーがひいてありました。

「ラインマーカーは重要な部分にひくものだと思っていたけれど、いったい、どこが重要なんじゃ? 全部か!」

と心の中で突っ込みつつ、本をさらによく見てみると、本の中には、「山口昌男は、●●と述べている」と、山口先生自身の文章の引用があったのです。

ところが、そこにも、山口昌男本人の手による、真っ黄色の線が引いてありました! 

「自分が昔、書いたものには線を引かなくてもいいだろう~。それも、重要なのかい!」

と、心の中で、さらに突っ込んだことを、今、思い出しました。

閑話休題。

さて、この、本に赤や青で線を引くという読書法は、山口昌男のみならず、わりと多くの人が採用していたものだったのです。

2016/09/20

情報処理技術としての読書法:はじめに

現代人の生活に、パソコンやスマホなどの電子機器はなくてはならないものです。

誰しもがそうだと思いますが、私などはとりわけ検索機能に、多大な恩恵をこうむっています。

たとえば、『古事記』の中に、●●という表現はいくつ出てくるのだろうか、などといったことは、『古事記』がテキスト化してありさえすれば、一発で検索!

(ちなみに、『クソマルの神話学』を書いた頃、検索機能はまだそこまでは充実しておらず、テクストを全部読みながら、使用法をピックアップしていかなければならず、たいへんでした。)

ということで、現代の研究者、とくにテクスト解釈を行っている研究者にとっては、パソコン、および原典の電子化ほど便利なものはありません。

しかし、検索機能の恩恵が増大すればするほど、研究者自身の暗記能力はずいぶん落ちているなとも、自戒を込めて、痛感するのです。

今思い返しても、すごいなと思うのですが、私が尊敬している二世代前の研究者は、みなさん古典のテキストを丸暗記していました。

「●●の表現は?」とたずねると、『古事記』のどこそこ、それから、『万葉集』のどこそこ、といった具合に、答えがすぐに返ってきたものです。

しかし、今はインターネットあり、ポータブルのパソコンありの時代。

データにいつでもアクセスでき、検索できるので、テキストを丸暗記し、頭の中のメモリにデータをつめこんでおく必要がなくなりました。

ところで、電子機器の発達は、記憶力を高めなくてはならないといった切迫感を喪失させたほか、「読書法」「記憶法」といった知の技法、情報処理技術の様相も、さまがわりさせたと思うのです。

たとえば、現代の私たちは、コンピュータの検索機能によって、知りたい情報にすぐにアクセスできる一方、キーワードの前後の情報しか読まなくなっています。

つまり、私たちが検索機能によって抽出しているのは、分断された情報なのです。

この検索機能はコンピュータの発達以前にも、百科事典などの巻末に出てくる索引という形で存在していました。

パソコンの検索機能が存在せず、巻末に索引がついていない。そんな時代に生きた先人も、実は私たちと同様に、アナログの媒体からいかに情報を引き出すかということに苦心しました。

その先人の苦心の跡。すなわち、パソコンのない時代の情報処理技術。

それが当時、「読書法」やら「記憶法」などと呼ばれたものでした。

これから、アナログ時代の情報処理技術である「読書法」について、しばらく紹介してみたいと思います。

2016/08/10

アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法

田辺保氏の『シモーヌ・ヴェイユ』(講談社現代新書)をながめていたところ、ヴェイユの思考の仕方や記述の方法がとても参考になったので、記しておきます。

ヴェイユの師は、アランという筆名で有名な哲学者のエミール・シャルチェですが、彼女はその師アランから、次のような方法を教わったということです。

一つめ。

一流の哲学者の本を読み、「もっとも有益な実質を直接引き出してくる」こと。

そのためには、その哲学者の本を「1ページずつばらし、まっ白な大きい紙にはりつけなおして、その余白に読書ノートを書きとめる」。

「紙は大きければ大きいほどよい」。

なぜなら、「何も書かれていない純白の空間は、精神の集中と傾倒を否応なく強いるから」。

二つめ。

「スタンダールにならって少なくとも日に二時間はものを書くように。また、書いたものを消したり、訂正したりしないように」。

なぜなら、「『書く』という作業は、思考を強い、そして、訂正せずに文章をつづるという訓練は、思考の明快な流れを持続させて行く努力を要求する」から。

この教えを忠実に守った結果、ヴェイユは、「すべてにぬきんでたスピノザの注解」(アランによるコメント)をなしとげ、「過酷な工場生活のさ中にも、頭痛にうちひしがれているあいだにも」「ペンをとって自分の思索を紙上に書きとめるという作業を中止しなかった」ということです。

ちなみに、ヴェイユの師であるアランの『プロポ』(みすず書房)は、「二枚の便箋に、訂正なしで一気呵成に」、30年にわたって書き続けられたものだという解説が、みすず書房のホームページ上にありました。

2013/03/30

石橋湛山の読書論

最近、日々の生活、時間の使い方をできる限りコントロールしようとがんばっているのですが、そんな矢先、石橋湛山全集を眺めていたら、興味深い記事に出会いました。

ちなみに、石橋湛山(いしばし たんざん)は、早稲田大学の哲学科を首席で卒業。東洋経済新報社に入社し、ジャーナリズムの世界で文章を書いて生活し、のちに内閣総理大臣になった人物です。

彼が面白いのは、「独学」で経済学を学んで大蔵大臣にまでなり、また他人から読書家と呼ばれたほどの人物だったことなのですが、その秘訣が、「私の読書技術」と「電車で学んだ経済学」というタイトルの2つの文章にあらわれています。

この2つに重なっている箇所があるので、私の方で整理してみますと、次のようになります。

①毎日一定の時間を決めて、ある書物を少しずつ読み続けること。難しい専門書も、辞書を引き引き読む英語も、一日1ページと決めてかかれば、一年で365ページを読むことができる。場所は、電車の中などでもよい。

②手当たり次第に何でも読むのではなく、一定の方針を決め、良書のみを選んで、丹念に読む。自分の血肉になるもの以外は読まない。

③外国書は必ず原著で読むこと。

要約すると非常にシンプルになってしまうのですが、湛山の勉強の様子を伝えるために、少々引用してみたいと思います。

私は、大学では哲学を修めたもので、経済学は、その後自分で独習したのである。その手ほどきとして読んだのは、セリグマンのプリンシプルス・オブ・エコノミックスであったが、これはだいたい朝夕通勤する電車の中で読みあげた。電車とか汽車とかは、今日のごとく混雑さえしていなければ、きまった時間だけ読書する私の読書法にはもっとも適当する場所である。経済学の書物も、数は、あんまり読んでいないが、アダム・スミスやリカードーをはじめ、クラシックの物は一とおり、目を通した。それらは、いずれも右の(注:上述した)読書法でやったのである。

当然のことながら、この毎日の読書の他に、石橋湛山は、仕事柄いろいろなものを書く際に必要となる書物の読み方についても記しています。

それはずばり、「全部を読むな。インデックスを使え!」。

つまり、書籍というのは、毎日一定の時間をかけて小量ずつしか読み進めることのできないけれども自分の血肉になる本と、インデックスを用いて必要となる情報を知りさえすれば事足りる本とがあるため、その両者を分けて、差別化を図って読むことが必要だと言っているわけです。


2012/08/08

日誌の重要性

現在、ブログはリハビリ中。

ここ数ヶ月、心ここにあらずの荒れ果てた生活をしていたので、昔、カテゴリーの「自己実現のための勉強法」で日誌の重要性などと書いていたにもかかわらず、日誌をまったくつけていなかった。そもそも日誌の存在をすっかり忘れていたのです。

で、今、オリンピック開催中で、ふと、マラソンの小出監督は何をしているのかと思い、「小出道場」なるホームページを見たら、日誌の重要性が書かれているのを発見し、たいへん勉強になりました。

そこで、数日前から、日誌を復活させてみたところ、やっぱり良い! 日々の気合いの入れ方がまったく違うことを実感しました。

興味のある方は、小出監督のホームページの「小出道場虎の巻」をご覧ください。参考になります。

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