カテゴリー「主な仕事の紹介」の7件の記事

2009/11/26

単著

2009

大人のための仏教童話 人生を見つめなおす10の物語 』(光文社新書428)

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三冊めの単著です。2008年の9月くらいから断続的に原稿を書き続け、途中、いろいろとありましたが、最終的に、光文社新書から2009年10月に刊行されました。

この本を書く直接のきっかけは、山梨にある都留文科大学という大学で、カリフォルニア大学からやってきた留学生を教えたことにあります。

本書の「はじめに」の部分でも触れたように、私の担当は日本の文化や歴史を教える「日本研究」という科目で、留学生の日本語の能力はだいたい日本の小学3年生くらい。しかも、授業は実質3ヶ月。

ということで、彼らの日本語を伸ばしつつ、どのようにして日本の文化や歴史を教えるのかということをたいへん悩みました。

そして、あるとき、日本の仏教童話をテキストにしながら、日本文化や歴史の重要な一翼を担った仏教の基本的な考え方を学ぶというやり方を思いついたのです。

そう考えたら、芥川龍之介の童話もいいな、新美南吉の童話もあるぞと、うきうきしてきたのですが、ここでもう一つ問題が……。

それは、童話をどういう順番で並べるのか、個々の仏教童話の連なりをどういう大きなテーマと結びつけるのかということ。つまり、テーマと構成の問題が立ちはだかってきたのです。

そこで、私が選んだテーマは、慈悲(じひ)。

仏教の重要な思想に、空性(くうしょう)と慈悲(じひ)がありますが、今回の本では慈悲に焦点を当てました。ですから、仏教童話の配置も、段階を追って慈悲の理論的な理解が深まるように、まずは苦を物語る童話から始め、最後には慈悲を物語っている童話を置いたという次第です。

ちなみに、この構成を考えたときに主に参考にしたのは、以下の本です。

シャーンティデーヴ[金倉圓照 訳]『悟りへの道』平楽寺書店

(ちなみに、この本では、シャーンティデーヴァの「ヴァ」は、「ワ」に濁点で表記されています。が、アマゾンでは「ヴ」となっているようです。)

この本の別訳(プラス解説)には、次のような本があります。

ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ[西村香 訳註]『チベット仏教・菩提行を生きる 精読・シャーンティデーヴァ「入菩薩行論」』大法輪閣

ただし、この別訳書は現在絶版のようで、復刻版がポタラ・カレッジより出版されています。

そして、シャーンティデーヴァの本の解説書には、以下のような書籍があります。

ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/藤田省吾『チベット密教 心の修行』法蔵館

ダライ・ラマ十四世[三浦順子 訳]『ダライ・ラマ 怒りを癒す』講談社

ダライ・ラマ十四世[谷口富士夫 訳]『ダライ・ラマ 至高なる道』春秋社

ところで、なぜ慈悲に焦点を当てたかということの理由ですが、これには2つあります。

1つは、私の授業を履修するアメリカからの留学生にとって、「空性」と「慈悲」のいずれが理解しやすいかを考えたとき、彼らの背後にあるキリスト教文化の「赦し」の思想と、仏教の慈悲が通底するのではないか、空性からよりは慈悲からの方が仏教に接近しやすいのではないかと思ったためです。

西欧の哲学者の中に、仏教の空性と非常に似た哲学観を有している人がいます。それは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。

私自身、彼の哲学に非常に感銘を受け、大学院時代にはウィトゲンシュタイン研究の第一人者でいらっしゃる黒崎宏先生のもとに通って授業を聴講したり、ウィトゲンシュタインに関する本を読みあさったりしました。

そして、ウィトゲンシュタインの哲学をもとにした、社会科学の研究方法に関する論文を何本か書いたわけです。拙著『クソマルの神話学』第9章のいわゆる理論編も、この時の成果がもとになっています。

ちなみに、ウィトゲンシュタインの哲学が仏教と似ていることは、黒崎先生ご自身が何冊もの著書で述べられています。たとえば、以下の書籍がそれです。

『ウィトゲンシュタインと禅』哲学書房

『ウィトゲンシュタインから龍樹へ—私説「中論」』哲学書房

『理性の限界内の「般若心経」—ウィトゲンシュタインの視点から』春秋社

私は20代の中頃から、このような黒崎先生の御著書を読みつつ、ウィトゲンシュタインの哲学から仏教の空性へと接近しはじめました。その時に思ったのは、仏教思想の中でも、とりわけ難解だと言われる空性は、ウィトゲンシュタインの哲学を理解しておくと、比較的わかりやすいのではないかということでした。

ここで、話を元に戻します。このように、西欧の哲学者の中にも、仏教の空性に近い考えを持った人はいるのです。けれども、だからといって、果たして留学生に、この難解な空性を理解してもらえるのか。それから日本語を勉強しに来ている彼らに、非常に論理的・哲学的思考を必要とする空性を、日本語で充分に説明できるのかどうか。さらには、それが日本文化そのものの理解につながるのかどうか。私にはそういったもろもろのことが心配されたのでした。

そこで、先にも書きましたが、今回は、空性でなく、キリスト教の「赦し」の思想ともつながる仏教の慈悲の方に、焦点を当てようと思ったわけです。

次に、私が慈悲をテーマに選んだ2つめの理由ですが、慈悲を理解することは、現代社会のあちこちで生じているトラブルへの対応に、有効ではないかと思ったためです。これについては、この本の冒頭部分で書いていますので、詳細は省略します。

以上の2つの理由から、慈悲を理解するのに良いと思われる仏教童話を10話選定し、それを読みながら、その中に描かれている仏教思想を読み取るという形式で、仏教の基本的な思想の解説を試みたのが本書です。

次いでといっては何ですが、アニメの「地獄少女」について書いたこちらの記事もお読みいただければ幸いです。

2004
猫はなぜ絞首台に登ったか』(光文社新書154)

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二冊めの単著です。『クソマル』を出してすぐ、光文社新書の小松現さんから連絡をいただき、刊行の運びになりました。「近代の中に古代がある」という神話学的なテーマを図像から読み解いたものです。

近代初頭に、ロンドンとパリで、動物(とくに猫)の虐殺事件が相次ぎました。この本は、それを描いた二つのテクストを取り上げ、その神話的意味を考察しています。

二つのテクストのうちの一つめは、ウィリアム・ホガースの描いた『残酷の第四段階』という四枚の銅版画のうちの第一段階の絵。

二つめは、当時のパリの印刷工であったニコラ・コンタが記した物語風の自伝。

この二つを検討してみると、18世紀半ばのヨーロッパの大都市では、動物虐待をしている大勢の人々に対する、批判的な視点が誕生してきたことがわかります。

そこで、動物虐待をしている人々の文化的背景、動物愛護の人々の文化的背景とは何かということを、特に動物虐待を中心に探ってみたのが本書です。

ちなみに、この本のポイントは、よく知られている文献を使って、従来の論理をひっくり返したところにあると思っています。ですから、本文の論理構成に着目して読んでいただければ嬉しいです。

ところで、この本はいったいどういう本なのか、ということですが、誰か気づいてくれるかと思って、本文中で明確に述べず、具体的な分析で示そうと 思っていたところ、ハッキリ書かないとホントに誰も気づいてくれないという、当たり前といえば当たり前のことがらを悟るに至りました。

そこで、この場を借りて、大声で叫びます。
「この本は、神話学の方法を用いた記号論の入門書なんですっ!」

やはり日本では、記号論はまだ根付いていないと思ってしまう今日このごろ。
というわけで、ご興味をお持ちになりましたら、是非お読みいただければ幸いです。

2003
クソマルの神話学』(青土社)

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2002年、この本のもとになる論文を、『現代思想』(第30巻第2号)に書いたのですが、掲載と同時に、当時青土社にいらした故・津田新吾さんから単著化のお話しをいただきました。

初めての単著が「クソマル(=脱糞行為)」についての本だなんて、あーあという感じもしないではないですが、しごく真面目に、クソマルの神話を取り扱っています。

古代日本の神話における「クソマル」という言葉をすべてたどり、行き着いた先は、「古代人」は糞を穢れたものと認識していなかった「可能性がある」、ということ。

なお、これまで、公私にわたって様々な方々に『クソマル』の評をいただきましたが、大部分の方々は、この本の哲学的検討の部分(第九章と第十章)を誤解されているようで、非常に残念な気がしています。

詳細は本文にゆだねますが、理論的にはウィトゲンシュタインの哲学を援用しながら、従来の神話研究、クロード・レヴィ=ストロースの構造主義的な神話分析、およびミシェル・フーコーのエピステーメーの考え方の批判を行っています。つまり、普遍主義および相対主義の両者の考え方の問題点を指摘しているわけです。

私的には、山口昌男先生(文化人類学者)、西郷信綱先生(古典学)をはじめとして、市村弘正先生(思想史)、石野博信先生(考古学者)、佐佐木隆先 生(国語学者)、西川治先生(地理学者)、杉浦芳夫先生(地理学者)、黒崎宏先生(哲学者)といった先生方から評価していただいたことが励みになりまし た。

論文

♣2002年4月までは「佐藤由美子」、5月以降は「東ゆみこ」の名前で執筆しています。

2008

「壊れた世界と秘匿された“自然”」『思想』2008年第9号(No.1013)

この論文は、『思想』の互盛央・編集長からメールを頂いたことが切っ掛けで出来上がったものです。
 かなり以前から温めていたテーマ、敗戦後の日本の象徴的世界の崩壊と、それに伴う「存在」の突発的な現れに関する問題をいくつかの角度から論じています。
  もちろん、「存在」とはハイデガーの用語を意識してのものですが、日本の中で、ハイデガーと同様の問題を扱おうとすると、「自然」という言葉が親和的なも のとして浮上してくるのです。ですから、論文のタイトルの中では「存在」ではなく、「自然」という言葉を用いています。
 なお、論文中で取り上げた事柄は以下の通りです。
  石坂洋次郎の作品群に見られる原始的思考の考察から始まりまして、昭和二九年の雑誌『平凡』におけるスタアと海女が共存するグラビアの分析、さらにはそれ と同時期に勃発した近江絹糸労働争議の新解釈、そして近江絹糸事件を題材にした三島由紀夫の小説『絹と明察』とそこに読み取れる神話的思考へと続き、最終 的には寺山修司の「田園に死す」にまで行き着きます。
 取り上げたいずれのテクストも、時代の転換期、すなわち農村型社会(伝統型社会)から都市型社会への移行期に登場したものなのですが、これらのテクストを神話学的・記号論的に読解しています。
 本当は、他にもいろいろ取り上げたかった事柄があるのですが、規定の枚数をどんどん越えてしまって、結局89枚も書いてしまいました。 
 というわけで、それらについてはまた今度考えるつもりです。

2002

「差異空間の神話学─日本神話における『クソマル』をめぐる諸問題─」『現代思想』第30巻第2号
*図版のみ『現代思想』第30巻第4号、269頁に掲載

この論文が『クソマルの神話学』のもとになりました。

『クソマル』の神話学をぎゅーっと短くしたと言えるものですが、凝縮している分、表現が難しくなっていると思います。

これが世に出たそもそものきっかけは、私が日本女子大学現代社会学科の助手をしていた頃、同じ学科にいらした成田龍一先生(日本近代史)に、この論 文の原型をお見せしたことに始まります。先生はいろいろと貴重なアドバイスをくださった上、『現代思想』誌に推薦してくださり、掲載の運びになりました。

『現代思想』に掲載されてすぐ、青土社書籍部の津田新吾さんから単著化のご提案を受けました。

それと同時に、同じ学科の吉澤夏子先生(社会学)や、東京大学の吉見俊哉先生(社会学)、法政大学の市村弘正先生(思想史)から評価していただきま した。吉見先生は研究会での発表の場をくださり、市村先生は「本にする時には難しいことも遠慮しないで書きたいことを書き尽くした方がいい」というアドバ イスをくださったのです。思いがけない方々との新しいつながりを生んでくれたのが、この論文でした。

2000

「漁撈民の移住に伴う集落形成とその特質─鴨川市天面地区を事例として─」『日本女子大学紀要人間社会学部』10号

卒業論文をまとめたものです。

どんな内容かというと、房総半島の漁業集落の成立について、民俗事象を手がかりにしながら考察したものです。

この論文、テーマだけに着目すると、クソマルや猫の虐殺なんぞと違って、格調高いですね。いったいいつから、現在のような「ゲテモノ趣味(!?)」になったのか、自分でも疑問です。

指導教官の式正英先生(地形学)からは、「このまま行けば、将来、立派な集落地理学者になれますよ」とおっしゃっていただいたことさえあるのに……。道を大きく踏み外しました。先生、ごめんなさい!

もとい。房総半島の漁業集落へは、近世期、紀州漁民は鰯を求めて房総半島に出稼・移住してきたということがわかっています。もともと、それを解明し た研究はたくさんあるのですが、従来の研究は、公文書の残されている地域が中心で、公文書の残されていない比較的小規模の集落は、これまで研究対象とされ てきませんでした。

そこで、私は、この公文書のない、ごくごく小さな漁業集落をとりあげました。そして、その地域の漁法・埋葬法・墓碑名・若者組といった生活資料に着目してみたのです。その結果、この集落が紀州漁民の移住によって成立した漁業集落であったということがわかったのです。

「社会科学における『近代』(1)─フィールドワ−クという概念そのものについて─」『お茶の水地理』41号

自分で言うのも何ですが、これは難しい論文だと思います。30枚という枚数制限があったので、詳細に書けなかったということもあります。ですが、それ以上に、内容的に一切の遠慮をしない論文というものを書いてみたかったのです。

内容は次のようなものです。

現代は「実践」重視の時代です。福沢諭吉が、古文の読解や和歌や詩を楽しむというような「実(じつ)なき学問」よりも、そろばんの稽古や地理学、物理学、歴史、経済学といった実学を重んじたことにそれが現れています。

要するに、形而上学よりは形而下学、内省よりは実行を優先する時代と言えるわけです。それが文化人類学や人文地理学など、社会科学全般で重視されているフィールドワークの思想にも見いだせます。

ところが、そういう「実践」なるものを重視する考え方を検討してみると、時代ごとに繰り返される、相反する大きな二つの思想的潮流のうちの片方にすぎないということが見えてくるわけです。

日本の近代文学史で言えば、自然主義的文学とロマン主義的文学の二つの流れが、これにあてはまります。つまり、ある時期に自然主義的文学が隆盛を迎えると、次にはそれに反発するようにロマン主義的文学が勃興するというようなものです。

つまり、現代の「実践」重視の思想は、いわゆる自然主義的な文学に相当するものなので、時代が変われば、いわゆるロマン主義的文学に相当するような思想に取ってかわられる可能性があるということになります。

そういう問題を踏まえて、いったいどういう視点が研究上可能なのか、ということを追求したのがこの論文です。

タイトルを見ていただくとわかるように、これは続きを想定していました。だけど、こちらもまだ続きを書いていません。。。。

どこかで書いてみたいものです。

1999

「イニシエーションの構造に関する比較神話学的研究─デメテル・ペルセポネ神話と天岩屋戸神話の比較を通して─」『日本女子大学紀要人間社会学部』9号

こちらも、修士論文の一部をまとめたものです。これについても、近々別の形で発表する予定です。

「社会科学における用語の定義について─ウィトゲンシュタイン・『家族的類似性』の観点から─」『お茶の水地理』40号

論文を書く際に、押さえておかなくちゃいけない習慣として、使用する用語を定義するという考え方が主流であったし、今でも主流であるわけです。

ところが、アリストテレス以来、続いているこの「定義」という考え方を、ウィトゲンシュタインがひっくり返しました。この論文では、いかに「定義」というものが成り立たないか、定義の不成立が社会科学上、どのような意味を持つのかということを述べています。

ちなみに、この論文は、拙著『クソマルの神話学』の第十章のもとになりました。

1997

「『天岩屋戸神話』におけるイニシエーションの構造」『お茶の水女子大学人文科学紀要』50巻

修士論文の一部をまとめたもの。これについては、近々内容を発展させて、別の形で発表する予定です。

「『明治20年代』における『地理学』の位相研究序説─内村鑑三『地人論』を梃子として─」『お茶の水地理』38号

お茶大の博士課程時代に書いたもの。

内容は、内村鑑三の言説を起点にして、明治20年代の言説空間を明らかにしようというものです。

地理学者がよく引用する言葉に、内村鑑三の『地人論』という本の中の「地理学は実に諸学の基なり」という一文があります。内村は、地理学が「諸学の 基」、つまり「殖産、政治」の基礎となるだけでなく、「美術、文学、宗教」までもが地理学を基盤としていると言っているわけです。

今では少し違和感を感じるようなこの記載。人によっては「またまたぁ! 担いじゃって、コノォ! 地理学って、そんなにすごい学問だったっけ?」という突っ込みのお言葉までいただいてしまいそうなこのセリフ。

実は、こういう記述は、内村以前の言説に頻繁に出ています。ところが、明治20年代を境にして徐々に徐々に減っていくのです。

そこで、このような事態が生じた思想的な背景を解明しようというのが、この論文です。

「序説」でとどまっていて、続編を書いていないので、機会と場所があったら書いてみたいなあと思っています。

1996

「地理学再検討のための視座─ウィトゲンシュタイン・<言語ゲーム>論をめぐって─」『お茶の水地理』37号

うれしはずかし、正真正銘、雑誌論文の第一号。気合いだけで書いているので、訂正したい箇所が多々あり、 今見直すと、ギャーっと赤面します。ですが、今はかえって、こんなふうには書けないというようなところもあります。

内容は、従来の人文地理学が言語論的転回を無視して研究を進めてきたのではないかという問題を提起するものとなっています。

エッセイ

2009.7.10

「イチゴ畑」『本が好き!』2009年8月号(通巻38号)(光文社)

2009.4.1

「朝蜘蛛」『新潮』第106巻4号(1251号)

2006.11.3

 他人指向的ネット・コミュニケーションのジレンマ」『日経BP DIGITAL ARENA』

2006.10.27

神話学とテクノロジー」『日経BP DIGITAL ARENA』

2004.7

手のひらの歴史」『歴史読本』第49巻第7号
(このブログ内の「エッセイ」のコーナーに掲載してあります。)

2002.5

「『差異空間』はどこにでもある」(研究手帖)『現代思想』第30巻第6号
(このブログ内の「エッセイ」のコーナーに「差異空間って、何?」という題で掲載してあります。)

ラジオ放送

2007.6.17

JFNラジオ版学問ノススメ 
『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』の出版を受けたインタビューです。
JFNのサイトで放送の録音が聞けます。

監修

2007

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世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』(PHP文庫)

『「世界の神々」がよくわかる本』に続いて私が監修を行った本です。

取り上げているのは、世界を股にかけて神話や民間伝承のなかで活躍してしてきた異形のものたちで、神獣、モンスター、妖精、精霊、獣姿の神々などなど。

地域を、ヨーロッパ、南北アメリカ大陸、アフリカ、
オセアニア、アジア、そして日本に分けて解説してあります。

もちろん今回も仙田聡さんの迫力あるイラスト付きです。表紙は、小林智美さん。こんなに美しいドラゴンがかつてあったかと思えるほど優美です。

とにもかくにも、廉価でコンパクトなこの本。にもかかわらず、私の知るかぎり、
これほど正確な情報が書かれているこのサイズの類書はまずない。そう断言してもよいでしょう。

是非いちど書店で手にとって、ご覧いただければと存じます。 _(._.)_

※編集の都合で掲載できなかった参考文献の一覧をダウンロードできます。

「MonsterBib..pdf」をダウンロード

2005

Kamigami


「世界の神々」がよくわかる本』(PHP文庫)

神話は、ゲームやファンタジー小説、漫画などの素材として、現代に生き返っています。この本は、そこに着目して作られました。

ポセイドンやヘラクレスという名前は知っている。あるいは、ゲーム上で、実際、神々の名前のキャラクターが活躍する。けれども、彼らが、本当はどこ の国の神々で、どのような物語に登場するのか知らない。

そういう読者に向けて、オリジナルの神話のストーリーを仙田聡さんのイラスト付きで紹介しています。表紙は、スターウォーズや三国志のポスターなどで高名な長野剛さんの手になるものです。

各項目を神名を中心に監修した上で、「まえがき」を書いています。手に取って中味を見て、是非とも購入していただければ幸いです。

共著

2004

『習志野市史 別編 民俗』(第一法規出版)

 

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私がやったフールドワークの仕事の一つです。

國學院大學の倉石忠彦先生を中心に、習志野市の住民の方々の民俗を調査し、報告したのがこの本です。

私は「人々の往来と商い」の章と、「生活の場のとらえかた」の章を担当しています。

面白かったのは、漁撈民が漁場をどう認識しているか、ということ。一見すると、「どこに線が引かれているの?」と思われる、ただ一面の青い海原に、彼らは独自に区切りをつけ、それぞれの部分に名前をつけていたことがわかりました。

翻訳

♣2002年4月までは「佐藤由美子」、5月以降は「東ゆみこ」の名前で執筆しています。

1998

ジョン・シャーウッドスミス著『海からの花嫁─ギリシア神話研究の手引き─』(法政大学出版局)(共訳)

 

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原作者は、イギリスの神話・古典学者ジョン・シャーウッドスミスさんです。彼はロンドン大学で古典学を教えていました。

本書は神話研究の基礎的な考え方を紹介しながら、トロイ戦争や女神テティスの物語をはじめとするギリシア神話を分析したものです。ギリシア神話の入門書としても、神話学理論の入門書としても読むことができる本です。

神話の紹介が中心ですので、物語を読むのが好きな方には楽しんで頂けると思います。

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