単著
2009
『大人のための仏教童話 人生を見つめなおす10の物語 』(光文社新書428)
三冊めの単著です。2008年の9月くらいから断続的に原稿を書き続け、途中、いろいろとありましたが、最終的に、光文社新書から2009年10月に刊行されました。
この本を書く直接のきっかけは、山梨にある都留文科大学という大学で、カリフォルニア大学からやってきた留学生を教えたことにあります。
本書の「はじめに」の部分でも触れたように、私の担当は日本の文化や歴史を教える「日本研究」という科目で、留学生の日本語の能力はだいたい日本の小学3年生くらい。しかも、授業は実質3ヶ月。
ということで、彼らの日本語を伸ばしつつ、どのようにして日本の文化や歴史を教えるのかということをたいへん悩みました。
そして、あるとき、日本の仏教童話をテキストにしながら、日本文化や歴史の重要な一翼を担った仏教の基本的な考え方を学ぶというやり方を思いついたのです。
そう考えたら、芥川龍之介の童話もいいな、新美南吉の童話もあるぞと、うきうきしてきたのですが、ここでもう一つ問題が……。
それは、童話をどういう順番で並べるのか、個々の仏教童話の連なりをどういう大きなテーマと結びつけるのかということ。つまり、テーマと構成の問題が立ちはだかってきたのです。
そこで、私が選んだテーマは、慈悲(じひ)。
仏教の重要な思想に、空性(くうしょう)と慈悲(じひ)がありますが、今回の本では慈悲に焦点を当てました。ですから、仏教童話の配置も、段階を追って慈悲の理論的な理解が深まるように、まずは苦を物語る童話から始め、最後には慈悲を物語っている童話を置いたという次第です。
ちなみに、この構成を考えたときに主に参考にしたのは、以下の本です。
(ちなみに、この本では、シャーンティデーヴァの「ヴァ」は、「ワ」に濁点で表記されています。が、アマゾンでは「ヴ」となっているようです。)
この本の別訳(プラス解説)には、次のような本があります。
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ[西村香 訳註]『チベット仏教・菩提行を生きる 精読・シャーンティデーヴァ「入菩薩行論」』大法輪閣
ただし、この別訳書は現在絶版のようで、復刻版がポタラ・カレッジより出版されています。
そして、シャーンティデーヴァの本の解説書には、以下のような書籍があります。
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/藤田省吾『チベット密教 心の修行』法蔵館
ダライ・ラマ十四世[三浦順子 訳]『ダライ・ラマ 怒りを癒す』講談社
ダライ・ラマ十四世[谷口富士夫 訳]『ダライ・ラマ 至高なる道』春秋社
ところで、なぜ慈悲に焦点を当てたかということの理由ですが、これには2つあります。
1つは、私の授業を履修するアメリカからの留学生にとって、「空性」と「慈悲」のいずれが理解しやすいかを考えたとき、彼らの背後にあるキリスト教文化の「赦し」の思想と、仏教の慈悲が通底するのではないか、空性からよりは慈悲からの方が仏教に接近しやすいのではないかと思ったためです。
西欧の哲学者の中に、仏教の空性と非常に似た哲学観を有している人がいます。それは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。
私自身、彼の哲学に非常に感銘を受け、大学院時代にはウィトゲンシュタイン研究の第一人者でいらっしゃる黒崎宏先生のもとに通って授業を聴講したり、ウィトゲンシュタインに関する本を読みあさったりしました。
そして、ウィトゲンシュタインの哲学をもとにした、社会科学の研究方法に関する論文を何本か書いたわけです。拙著『クソマルの神話学』第9章のいわゆる理論編も、この時の成果がもとになっています。
ちなみに、ウィトゲンシュタインの哲学が仏教と似ていることは、黒崎先生ご自身が何冊もの著書で述べられています。たとえば、以下の書籍がそれです。
『理性の限界内の「般若心経」—ウィトゲンシュタインの視点から』春秋社
私は20代の中頃から、このような黒崎先生の御著書を読みつつ、ウィトゲンシュタインの哲学から仏教の空性へと接近しはじめました。その時に思ったのは、仏教思想の中でも、とりわけ難解だと言われる空性は、ウィトゲンシュタインの哲学を理解しておくと、比較的わかりやすいのではないかということでした。
ここで、話を元に戻します。このように、西欧の哲学者の中にも、仏教の空性に近い考えを持った人はいるのです。けれども、だからといって、果たして留学生に、この難解な空性を理解してもらえるのか。それから日本語を勉強しに来ている彼らに、非常に論理的・哲学的思考を必要とする空性を、日本語で充分に説明できるのかどうか。さらには、それが日本文化そのものの理解につながるのかどうか。私にはそういったもろもろのことが心配されたのでした。
そこで、先にも書きましたが、今回は、空性でなく、キリスト教の「赦し」の思想ともつながる仏教の慈悲の方に、焦点を当てようと思ったわけです。
次に、私が慈悲をテーマに選んだ2つめの理由ですが、慈悲を理解することは、現代社会のあちこちで生じているトラブルへの対応に、有効ではないかと思ったためです。これについては、この本の冒頭部分で書いていますので、詳細は省略します。
以上の2つの理由から、慈悲を理解するのに良いと思われる仏教童話を10話選定し、それを読みながら、その中に描かれている仏教思想を読み取るという形式で、仏教の基本的な思想の解説を試みたのが本書です。
次いでといっては何ですが、アニメの「地獄少女」について書いたこちらの記事もお読みいただければ幸いです。
2004
『猫はなぜ絞首台に登ったか』(光文社新書154)
二冊めの単著です。『クソマル』を出してすぐ、光文社新書の小松現さんから連絡をいただき、刊行の運びになりました。「近代の中に古代がある」という神話学的なテーマを図像から読み解いたものです。
近代初頭に、ロンドンとパリで、動物(とくに猫)の虐殺事件が相次ぎました。この本は、それを描いた二つのテクストを取り上げ、その神話的意味を考察しています。
二つのテクストのうちの一つめは、ウィリアム・ホガースの描いた『残酷の第四段階』という四枚の銅版画のうちの第一段階の絵。
二つめは、当時のパリの印刷工であったニコラ・コンタが記した物語風の自伝。
この二つを検討してみると、18世紀半ばのヨーロッパの大都市では、動物虐待をしている大勢の人々に対する、批判的な視点が誕生してきたことがわかります。
そこで、動物虐待をしている人々の文化的背景、動物愛護の人々の文化的背景とは何かということを、特に動物虐待を中心に探ってみたのが本書です。
ちなみに、この本のポイントは、よく知られている文献を使って、従来の論理をひっくり返したところにあると思っています。ですから、本文の論理構成に着目して読んでいただければ嬉しいです。
ところで、この本はいったいどういう本なのか、ということですが、誰か気づいてくれるかと思って、本文中で明確に述べず、具体的な分析で示そうと 思っていたところ、ハッキリ書かないとホントに誰も気づいてくれないという、当たり前といえば当たり前のことがらを悟るに至りました。
そこで、この場を借りて、大声で叫びます。
「この本は、神話学の方法を用いた記号論の入門書なんですっ!」
やはり日本では、記号論はまだ根付いていないと思ってしまう今日このごろ。
というわけで、ご興味をお持ちになりましたら、是非お読みいただければ幸いです。
2003
『クソマルの神話学』(青土社)
2002年、この本のもとになる論文を、『現代思想』(第30巻第2号)に書いたのですが、掲載と同時に、当時青土社にいらした故・津田新吾さんから単著化のお話しをいただきました。
初めての単著が「クソマル(=脱糞行為)」についての本だなんて、あーあという感じもしないではないですが、しごく真面目に、クソマルの神話を取り扱っています。
古代日本の神話における「クソマル」という言葉をすべてたどり、行き着いた先は、「古代人」は糞を穢れたものと認識していなかった「可能性がある」、ということ。
なお、これまで、公私にわたって様々な方々に『クソマル』の評をいただきましたが、大部分の方々は、この本の哲学的検討の部分(第九章と第十章)を誤解されているようで、非常に残念な気がしています。
詳細は本文にゆだねますが、理論的にはウィトゲンシュタインの哲学を援用しながら、従来の神話研究、クロード・レヴィ=ストロースの構造主義的な神話分析、およびミシェル・フーコーのエピステーメーの考え方の批判を行っています。つまり、普遍主義および相対主義の両者の考え方の問題点を指摘しているわけです。
私的には、山口昌男先生(文化人類学者)、西郷信綱先生(古典学)をはじめとして、市村弘正先生(思想史)、石野博信先生(考古学者)、佐佐木隆先 生(国語学者)、西川治先生(地理学者)、杉浦芳夫先生(地理学者)、黒崎宏先生(哲学者)といった先生方から評価していただいたことが励みになりまし た。